日本テレビ 白井氏より
【 日本公演独占契約手記 】

( VOL.17~23 / Jan~Jul 1990 )

●●● マイケル・ジャクソンと独占契約 ●●●

 制作に27年在籍した後、事業部という新しい世界に職場が変わったのが '86年の2月。
 右も左も判らなかった私も、どうにか水に馴染んできた夏の終わりごろ、友人の浅川氏から思いもかけない情報が飛び込んできた。
 「日本テレビは、マイケル・ジャクソンを招聘する気はありませんか」と言うのだ。
 驚いた。

 マイケルと言えば、今世紀最大の超スーパースターであり、あまたのプロモーター・テレビ局・代理店・はたまた個人が、何年もかかって来日交渉に当たっていた事は知っていたし。
 しかもそれが大変難しく、日本への招聘はまず無理というのが相場だった。

 それが日本テレビに、しかも私のようなドのつく素人にどうして…。
 よーく調べてみると、出所はジミー・オズモンドだと言う。
 ジミーだったのか。

 思い起こせば昭和56年('81年)、日曜の夜8時台にバラエティをという御下命があった。そこは大変キツい枠だった。
 何か目玉が欲しい。
 まず、仲良くして戴いた 故・三波伸介さんがOKしてくれた。近藤真彦くんに高田みずえちゃんも決まった。
 しかしバラエティ番組としては、もう1つ色が欲しい。
 そうだ、あの可愛らしいカルピス坊やのジミーが立派な青年(当時17歳)となって日本に来たがっている。これだ!と思い、彼に接触した。
 そしてレギュラーに加わってもらった。
 彼がたどたどしい日本語で、三波さん方に下宿する留学生という設定で、『日曜お笑い劇場』はスタートした。
 あの三波さんがベタ誉めするほど、ジミーは勘が良かった。
 番組は順調に進み、私は1人ぽっちで滞在中のジミーの兄貴代わりを引き受けた。途中来日したご両親にも会ったし、帰国後も時々来日する度に、食事をしては歓談した。
 ジミーと言えば、『ちっちゃな恋人』の他、日本で3枚のゴールドレコードを持っている大スターだったが、私との間はあくまで気さくな友人だった。


 そのジミーが、今はTAETOという会社の若き社長となって、昔のよしみで私にマイケルのことを伝えてきたのである。
 あいつなら信用できる。

 池松局長には、35周年記念事業の1つとして極秘扱いで稟議を通して戴き、「いいさ。とにかくベストを尽くして駄目ならしょうがない」と自分に言い聞かせつつ、単身LAに飛んだ。
 JALの機内では一睡もできずにLAに着くと、少しスリムになったジミーが満面に笑みをたたえて迎えてくれた。
 しかも驚いたことに、この足ですぐにマイケルのマネージャーに会いに行こうと言う。
 緊張と期待と睡眠不足で頭の中がメチャクチャのまま、第1回の交渉に入った。

 『一部上場の一流会社で最多のネット数を持つ、日本最初のテレビ局』・『12年をかけてシスティナ礼拝堂の天井画の修復に協力している局』等々を挙げ、だから安心して契約してほしいと懸命に訴えた。
 ジミーは私の横で、得意な顔をして黙っている。
 「グレート!」。マネージャー氏が日本テレビを讃えてくれた。
 ところが…である。
 「コンサートの放送はするつもりがない」。
 愕然とした。放送が無ければ意味がないではないか。
 ジミーの弁護士で私の友人でもあるジョン・エドモンド氏が、「また明日交渉しよう」と言った。

 それからというもの、放送権の獲得・ギャランティ・会場の問題等々、交渉と説明の細目の多さについて話せばキリがない。
 徹夜に近い交渉の連続で、1週間後、念願の放送権問題で日差しが見えてきた。
 その先は、一部長の権限を越える問題もある。よし、会社のフル・オーソライゼーションを持った人に来てもらおう。
 元営業の広瀬統括主任を伴って すぐ飛んで来てくれた池松局長は、私の顔をひと目見るなり、
 「白井君、とりあえず君は帰りなさい。目線がおかしいよ」と言った。
 たしかに疲労の極みで私は変だった。
 でも一緒に頑張ってくれているジミーの手前、そうは行かない。 「大丈夫、頑張ります」。

 そして3日後、NTVの要求を英文で長々と書いたものを先方に提出。
 「検討する」という返事をもらって、3人はいったん帰国した。

 東京で待ちが続いた。
 アメリカの動きは、刻々と弁護士からファックスで送られてくる。
 60%までは漕ぎつけた。

 2週間が経った。「明日、日本を発ってくれ」とファックスが入って来た。
 武野管理部長に社内を走り回ってもらって稟議を通し、1日遅れでANAに飛び乗った。今度は局長・広瀬主任も一緒なのがどんなに心強いことか。
 機中で3人は、電卓片手にただただ収支の計算ばかりだった。
 LAではさらに綿密な詰めの交渉の日々が続く。
 その間ジミーは必ず会議に同席して助言を与えてくれ、我々の健康を気づかってくれ、ある時は食物を買いに行ってくれたりもした。
 LA支局長の前川氏・秘書の小林嬢も全面的に応援してくれた。

 『契約するという契約(Agree For Agreement)』に漕ぎつけるのに7日かかり、局長と広瀬主任に「契約の時には必ず来て下さい」と念を押していったん帰国してもらう。
 「さぁ、1人だぞ」と自分に言い聞かせ、いつ帰国できるか検討もつかない日々が始まった。
 1週間のつもりが延びに延び、自分で下着を洗っては手製のカレンダーを1日ずつ消していく、獄中のような日々を過ごした。

 当初LAには25社がひしめいていて、その時点でまだ3,4社は諦めずに残って交渉中だという。
 ギャラの上乗せで獲得しようとする某テレビ局・某プロモーターの情報も飛び込んで来た。
 しかし、ジミーとマイケルは、「オズモンズ」・「ジャクソンズ」の末弟同士ということで仲が良く、既に2人だけのコンタクトが成っていたと知ったのもこの頃だった。
 マイケルは金銭よりも信頼の方を重視することも知り、誠心こめた交渉を続けた。

 先方から厚さ2cmもある契約書の1回目のドラフトが届いた。
 邦文に訳してもらい、要点をFAXで東京に送り、返事が来る。土日を返上して事業局の方も大変だ。
 そんな頃、職場のみんなから「部長ガンバレ」と寄せ書きのFAXが届いた。3週間も留守をして迷惑をかけていると思っていた矢先だったので、ことの外 嬉しかった。

 先方にNTVの要求を出す。2回目のドラフトが来る。また練り直して返す。3回目の返事が来る。
 その繰り返しで、5回目のドラフトでようやく本契約の兆しが見えた時は、既に20日間が過ぎていた。
 「局長、来て下さい!」 「よし!」。
 電話の短いやり取りで '87年4月23日(木)、池松局長が飛んで来てくれた。
 契約書の最後の仕上げに、時差ボケで眠い目をこすりこすり、局長も徹夜で頑張った。
 翌24日(金)、マイケル本人が契約に現われ、NTVとの独占契約が成立した。
 この時私は、ジミーを始め、沢山の人々の力が結集して初めてこれが成功したこと,人とは誠意をもって接することを改めて痛感しながら、マイケルと感激の握手を交わした。


 「明日は帰れるぞ」。池松局長が優しく労わってくれた。
 ホテルで、まだ乾き切っていない下着をパックしながら、「アメリカにも浪花節があったんだ」などと独り言を言いながら、例の手製のカレンダーを破って捨てた。

 こうして契約は済んだものの、この大イベントを成功に持ち込むには、到底 事業局の力では足りるはずがない。
 会社のあらゆるセクションの強力なお力添えをお願いし、35周年記念のオープニングに相応しい幕を上げたいと念願している。
 皆さんのご協力、本当にありがとう。
 そして SPECIAL THANKS TO JIMMY!


●●● 日本公演に燃えるマイケル ●●●
 まるで1つの神話の誕生であった。
 開演と同時に総立ちになった数万の観客を、たった1人の男が最後まで立ち尽くさせた。
 それもこれも全て納得という、筆者のリハーサル見聞記をお届けする。
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 コンサートの収録や、殺到するだろうプレスの取材等々。
 来日を控え、もう1度マイケルに会って確認したいことがあって、LAに飛んだのが '87年8月19日だった。
 マイケルのコンサート放送時に挿入するドキュメンタリー取材のため、芸能局の佐藤君・収録ディレクターの棚次君と23日に合流、いよいよマイケル様と会える日が近づく。
 ところが、リハーサルをやるスタジオも日時も、どうしても教えてくれない。

 そんな中、センチュリー市のCBSスタジオでスタッフのトップミーティングが行なわれ、NTVからは私が代表として出席した。
 3大ネットワーク、CNN・BBCなどの取材について入念な打ち合わせ。
 菓子パンが朝食として配られたが、とても甘くて食べられない。
 それより、肝心なことはどうなってるんだ?

 3時間ばかりの会議が終わると、プログラム・マネージャーが「俺の車について来い」と言う。
 そうして着いた先がユニバーサルのA-2スタジオだった。
 「ここだったのか」。やっと判った。プレスや熱狂的なファンをシャットアウトして、徹底的なセキュリティ重視の極秘作戦なのだ。

 セットを作っていた。
 Cスタの倍ぐらいの大きさのスタジオに、バカでかいステージを組み上げてる。まるで宇宙船のようなセット。ステージ客席側の床下に巨大な扇風機が、また圧搾ポンプ付の鉄塔が横に寝て仕組まれている。
 これを日本まで持って行くのかと唖然とする。何しろ持ち込む機材総重量が150トンというのだから、ケタが違う。
 佐藤ディレクターはそのセットの組み込みにも鋭い目を配ってVTRを回す。NTVにだけ許された取材である。
 「明日、午後1時からリハーサル!」という予定が発表されて、カメラクルーとお刺身で「お疲れさま」。やっと目途がついた。

 翌日午後1時、同じスタジオに入る。
 なんと、マイケルはもう踊りのリハーサル中だった。それも私の経験から推測すると、踊りと音楽合わせのリハーサルは少なくとも3日前からやっていたと思われるほど完璧な仕上がりで、照明と音と踊りのシンクロナイズには目を見張るものがあった。
 マイケルの指示でランスルーとなり、私はスタジオの模様をFAXで日本に送るための原稿を懐中電灯片手に書き始めた。
 書きながら舞台が気になって 観る・聴く、何とも慌しかった。

 『スリラー』が始まった。踊りもあのビデオ・クリップと全く同じ迫力と興奮である。
 新曲のデュエットでは、コーラスの女性(※シェリル・クロウ)と抱き合ったままフェイドアウト。
「もう1回やりたいなぁ」と言うマイケルに、スタジオ中 冷やかしの口笛と笑いで一瞬緊張がほぐれる場面もあった。
 例のムーンウォークが随所に出てくるが、横動きのムーンウォークは、今度の日本公演用に練習したとか。
 パーソナル・マネージャーのフランク・ディレオが、「どうだ?」と私の肩を叩く。「すごい! でも、もっとすごいトリックがあるんでしょ?」 「本番は、この3倍のテンポアップとなる。マジック・トリックは後楽園で観てくれ」。残念! 仕掛けの部分は観せてもらえそうにない。
 マイケルが舞台の滑りをかなり気にしている。「スリップするよ。みんな気をつけて。」と、マイケルは踊りの人たちに気を遣う。
 「床を直すまで、ランチ・ブレイクにしよう」。マイケルの指示で休憩。




※ 別日のリハーサル風景

 スタッフ用の移動簡易レストランがスタンバイしている。
 「ジャパニーズ・クルーも一緒に食べようぜ」で、和気あいあいの昼食となった。
 「日本ってどんな所だい」。ミュージシャンの1人から質問が出る。
 「アメリカ人は日本が小さい国だと思っているらしいが、右に太平洋が見えるからといって 左を見ても日本海は見えないよ」とやって、大ウケにウケた。
 皿を叩いて喜ぶドラマー、スタジオ中転げ回るダンサー。とにかく明るい。

 午後の稽古が始まる。
 日本のスタジオと違うのは、「ちょっと待ってくれよ」とか「駄目駄目、まだ飯を食ってるスタッフがいるから」等と大声を張り上げる人がいない。
 「OK! Beat It! One, Two, Three, Four!」 ジャ――ン! と音が出る。照明が変わる。踊る。歌う。
 歌のエンディングで火薬の大爆発があって終わる。
 「残念だなぁ、テレビじゃこの音の迫力は伝わらないなぁ」などということが脳裏を掠める。
 マイケルの目・首・胸・腕・指・腰・足・足首、その総てが別々の生物のように動く。
 「生きたアニメーション」 「分解写真ダンス」 「動く譜面」。そんなコピーが実感として頭に浮かんだのは、『Billie Jean』の時だった。
 「世界中が騒ぐのは無理ないな」。ついスタジオの隅で呟いてしまった。
 佐藤ディレクターは色々な角度にカメラを動かしている。棚次ディレクターはもう収録に入ったかのごとく、「パチゥ!パチゥ!」と指を鳴らしている。

 それにしても3時間連続、少しも休まず歌い踊るエネルギーは、仕事に対する厳しさからなのか,それともマイケルがベジタリアンであるお蔭なのだろうか、ただただ驚くばかりであった。
 その日、リハーサルが終わったのは午後9時過ぎだった。
 それを9月3日まで、なんと10日間続けるという。
 私達は日本へ帰らなければならなくなったが、こんなリハーサルを10日間もやったら ものすごい完成度になる。日本での舞台が素晴らしくなるのは間違いない。
 ドキュメンタリーを含んだ放送番組では思いがけないマイケルの素顔が見られるかもしれない。
 「日本で必ず待っているからね」。これだけは念押しをして、ホッとして帰路についた。
 東京は雨だった。
 雨よ、今のうちにうんと降っておいてくれ!


●●● 『マイケル・ジャクソン・ジャパン・ツアー』を終えて ●●●
 1987年9月7日、マイケル台風は成田に上陸、10月19日に去って行った。
 この間40日、彼は日本中に文字どおり “マイケル旋風”を巻き起こし続けた。

 日本最後のショーとなった10月12日、大阪球場で初めて最初から最後までステージを観せてもらいながら、あのLAでの最初の交渉から今日までのことが頭の中を駆け巡った。
 下着を洗濯しながら滞在したLAでの1ケ月半、本当に来るのかと成田まで出迎えた日、そして最初の後楽園…。
 計14公演の間には、それこそ色んなことがあった。
 公表できない交渉中の出来事・まだ話せないこと・本にでもすればベストセラーになるかもしれない?秘話も、実はたくさんある。
 今回お話できるのは、積もる話のほんの一端に過ぎないかもしれないが、まぁご一読下さい。

 来日が近づいたある日、マイケルがサルを連れて行きたいが、というFAXが入った。
 さっそく官庁関係担当の村井局次長に調べてもらうと、サルは検疫に3週間はかかるとの返事。
 その旨アメリカに伝えると、「サルではない。チンパンジーだ」と言う。
 サルもチンパンジーも同じじゃないかと思いながら、念のためもう1度調べると、なんと! チンパンジーはパスポートで入国出来るというではないか。びっくりしましたね。
 アメリカからは、「マイケルは大喜びだ。サンキュー」と言ってくる。

 人嫌いで無口なはずのマイケルが、成田に着くなりニコニコしながらファンに手を振るのを見た時、正直言って私は、
「これは替え玉が来ちゃったのかしら」と真面目に考え込んでしまうほどだった。
 あとで聞いたことだが、彼自身なにかの気持ちの切り替えがあったのも事実だが、何よりも、彼の目には日本人の笑顔が本物の笑顔として
映ったのだそうだ。(オーストラリアではまた無口になったかも)。

 歌っている最中、彼は意外にも観客をよ~く見ている。
 その証拠に、
 「真ん中の席の人が着ていたTシャツが欲しい」
と言い出した。
 なんとそれは我が社が作ったノベルティ商品だったから、喜んでプレゼントしたのは言うまでもない。

 ホテルの部屋で、彼は新聞やテレビをよく観ていた。
 ある日突然、泣きながら通訳の部屋に電話をかけた。
 こうして、あの誘拐されて帰らぬ人となった功明ちゃんへのメッセージ(第6夜の西宮公演)となったのである。


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 大阪行きの新幹線の中で、乗客の小さな子供を彼の席へ連れて行くと、マイケルは抱きかかえて「元気に育つんだよ」と、サインやキスのサービスをした。




下段は大阪から東京へ戻る新幹線(10月13日)

 彼の子供好きは普通ではない。
 NTV主催のプレゼンテーション・パーティで彼が入場する時、8月に公演したミュージカル「アニー」の子達が並んで 英語で『メイビー』を歌うという演出は、見事にマイケルのハートを掴み、始めから終わりまで彼の笑顔が絶えなかった。
 「高価なプレゼントも嬉しかったが、君達の歌がいちばん心に残ったよ…」。例の高い声で しかも遠慮して小声で言い残すと、上機嫌でパーティ会場をあとにして行った。


 来日の時 会って以来、裏方に回っていた私をある日見つけると、すかさず「どこに行っていたの」と声をかけるなど、周りへの気配りも忘れない男だった。

 大阪での病気の時だ。
 「入院!」と言われてショックで心臓が破裂しそうだったが、時間を追って快復していった頃 お医者さんに見せてもらったカルテには、『マイケル・ジャクソン殿。病名・急性咽頭炎』と書いてあった。
 私の子供が小さい頃よくかかったのと同じ病名だ。
 マイケルも人間だったのか、と妙なことを呟いてしまった。


※ クリックで担当医の手記が読めます

 大阪球場の追加公演の時、ついに雨が降り出した。せっかくここまで雨なしで無事過ごしてきたのに。私は神に祈った。
 3万人近いお客さんはショーの開始を待っている。
 マイケルは、レインコートを着てステージの袖に上がる。
 「ショーの間にスリップして踊れなかったらお客さんに申し訳ない。もし途中で踊れなくなったら、13日にもう1度追加公演をやろう」――。
 マイケルは通訳を通して観客にそう伝えてから、ショーを始めた。
 楽屋裏で見ていた私は、彼のその本物のプロの姿勢に頭が下がった。
 チケットが買えずに球場の外に集まったファンには帰り道、ステージで使ったのとは別の電飾入り衣装を披露してサービスした。


画像は 87年10月4日 横浜スタジアム最終公演直後


 ステージがある日は、午後からホテルの特別振り付け台で その日の振りを考え、ステップを変える。だから(群舞は別にして)彼の踊りは舞台のたびに毎回違っていた。
 スーパースターとして世界を制した秘密は、こんな所にあるかもしれない。

 いずれにせよ、大き過ぎるスターが来てしまった。
 数少ない一般事業部は、全員でこの公演に全力を注いだ。ケンカもした。涙もした。
 途中で、こんな大物を呼んでしまったため多くの人に苦労をかけることになった・申し訳ない、と思ったことすらあった。
 しかしある部員から、「これでもう誰が来ても怖くないですよ」と言われたのが大きな励みにもなった。


87年10月19日 招聘ゲストの送り出し(成田空港にて)


 『マイケル・ジャクソン ジャパン・ツアー'87』は、我が国初のTV局直接契約で、総入場者数45万人・事業売り上げ30数億円・ノベルティ売り上げ数億円と、数々の記録を残した。
 もちろん、収支も整わせることが出来た。


※ 販売・取り扱いは既に終了

 思えば、私とジミー・オズモンドとの間で育まれた小さな友情から出発して、こんな大きな成果を生むこととなったのだ。
 「人は大切にするもの」という座右の銘は、これからも心に刻みつけてゆきたい。
 確かに、いわば最初にヒットを打って出塁したのは私だったかもしれない。しかし、後続打を打ってそれを得点に結びつけたのは皆の力だった。しかも日本テレビだからこそ、それが出来たのだと思う。
 局長をはじめ事業局の皆さん、本当にお疲れさま。
 それを支えてくれた日本テレビ・読売テレビの皆さん、ありがとうございました。会長特別賞を戴き、事業局一同ますます張り切っています。


●●● マイケル放送余談 ●●●
 さて、マイケル・ジャクソン公演の放送には、11台のカメラで画を撮り、VTR12台をパラで回しましたので、テープの長さは全部で約20時間分。
 凝り屋の棚次ディレクターは、最終的には コマ(1/30秒)単位で割り出したデータ編集をしますが、そのデータ作りには徹夜に近い状態で約2週間・本番用のテープの編集は最初からスイッチャー2交替制をとり 徹夜で3日かかったということです。


VOL.17から連載してきました『独占手記』も、今回をもち終了となりました。
連載に際してご協力を戴きました日本テレビの白井様、
そして何よりも当初よりご配慮下さいました岡部様に
心より御礼申し上げます。

UPDATE - '07.05.10