【 プリマドンナの声帯 ― 音楽裏方医者のカルテから
 米山文明 (医学博士)

( VOL.27 / Dec 1990 )

■マイケル・ジャクソンの魅力の秘密■


 1987年の秋、はじめて日本公演に来日したアメリカのスーパースター・マイケル・ジャクソンの時も大変であった。

 その日、一日の診療を終えて、帰りじたくをしているところに往診依頼の電話が入った。応対に出た女性が今日は診療が終わったから明日来院してほしいと断わったが、相手は
 「明朝早く大阪に出発し、明後日から3日間大阪公演があるのでぜひ今晩診てほしい」と粘っている。
 患者さんの名前をきくとマイケル・ジャクソンだという。私もマスコミでその名前くらいは知っていたが、彼が世界最高のレコード売り上げを誇るスーパースターだとはこの時まだ知らなかったし、彼の歌も聴いていなかった。
 とにかく急を要する様子なので、すぐに往診の準備をさせて彼の宿舎キャピトル東急に急行した。

 ホテル周辺は若い女性が群をなして包囲し、異様な雰囲気であった。
 彼の一行はホテルの最上階全部を占拠していて、フロントでまずうるさくチェックされ、エレベーターに乗って階を告げると不審そうな顔でじろじろ見られ、エレベーターを降りたところでまた厳重に身分・目的をきかれ、廊下のかどかどで同じことを確認された後、ようやく一番奥の広い居間に通された。

 黒人を含む何人かのいかめしい人達が次々に入ってくるけれども、誰が本人かわからない。
 やがてガウンをまとった長身の華奢な青年(?)が現れた。どうやらこの人らしいけれども男性か女性か私には判別困難である。付き添ってきたマネジャーと名乗る男の紹介でやっと本人だと確認した。とりまきの人達の粗暴さ・いかめしさと対照的に物静かでナイーブな立居振舞いは女性的であった。

 さっそく診察することになり、これまでの経過をきいた後、声・咽喉の精密検査に入った。
 軽いカタル性の上気道の炎症が認められたけれども、発声障害の主因は喉頭の調節筋・つまり声を使い分けるための喉のまわり及び声帯をコントロールする筋肉の疲労と思われた。
 声帯の表面は少し赤いけれども滑らかで、部分的な腫れやむくみも殆んどない。しかし声を出させながら高さを変えたり、強さ・母音を変えたりして観察すると、それぞれの特定の部分で声帯がきちんと閉じない・あるいは緊張が足りないという機能低下現象が認められた。連日の公演のため、全身及び局所の過労の蓄積によるものと推測された。

 数日間 全身・局所の休養を指示し、神経や筋肉の賦活剤という一種の栄養剤を注射・投薬した。
 ここでもマネジャーが、どんな状態か? その薬剤の成分は? 薬名を書け、何のためにその薬を使うのか? と詳細な質問をし、やっと納得させて治療を終えた。

 特に印象に残ったのは、彼の声帯の構造であった。
 彼の全身から受ける雰囲気   女性的ともいえるソフトな物腰・態度と華奢でスマートな体型   と、彼の声帯から受ける感じとがまったく同じだったことである。
 この種の歌手の声から想像していた声帯粘膜表面のざらつきは無く、滑らかで形も細長く華奢な感じで、やや長めではあるが女性的ともいえる声帯であった。
 後日うわさに聞くと、彼は体の何ヶ所かを形成しているということであったが、まさか声帯まで形成することは不可能である。しかし彼を診察した後、何ともいえない不可思議な異様の後味が私の脳裏に残った。

 翌日私はさっそく彼のテープを買ってきて聴いてみた。
 やはり男性としてはかなり軽くソフトな音色と、響きが女性的で、これが彼の妖しい魅力の1つかもしれないと勝手に想像した。

 大阪公演は結局2日間延期した後、無事行なわれたことを新聞報道で知った。

*** END *** 


プリマドンナの声帯 ―音楽裏方医者のカルテから

1990年2月20日発行/朝日新聞社  B6版/200ページ  1,995円
ISBN:4022561017


著者・米山文明氏プロフィール
 
日本音声言語医学会・評議員 / 日本声楽発声学会・副理事長兼副会長 / 医学博士
COMET (Collegium Medicorum Theatri) Active Member

 
1925年生まれ。
東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室にて特に音声言語医学を専攻。
1965年、東京・渋谷に診療所を開設、主として臨床音声学の立場から診療と研究に従事。
作陽音楽大学客員教授、桐朋学園大学・沖縄県立芸術大学・尚美学園短期大学各講師として臨床音声学・音声生理学の講義を担当。

UPDATE - '06.10.30