【 アフリカ旅行 同行レポート '92 】
( JET誌 '92年3月16日号
( VOL.43 - 46 / May-Aug 1992 )

JET誌レポーター : ロバート・E.ジョンソン記者


 2人の胸もあらわな乙女が気温32℃の中 扇で風を送り、2人の小さな男の子が両脇でガードしている。
 上品な笑みを浮かべ、黄金の玉座に座っているのは、メガスター・マイケル・ジャクソン。
 彼は、西アフリカのこの村で 『キング・オブ・サニ』 の称号を授けられたのである。


 その印象的な儀式を見守る大勢の人々の中、33歳のエンターテイナーは王にふさわしい堂々とした態度であった。 西アフリカ・コートジヴォワール・クリンジャボ村の族長、エイモン・ンジャフォクより冠された彼の頭上の黄金の冠のように。

 この内気な "歌うセンセーション" は、かつて我々 『JET』 誌に語ったことがあった。
 「僕は、誰かの足跡を辿るのではなく先駆者でありたい」
と。
 彼は4人のアメリカン・ブラックのガードを傍に従え、天蓋つきの特別席に静かに座り、明るく微笑んでいた。 オレンジのシャツに黒いパンツ,トレードマークの黒い帽子の代わりに黄金に輝く王冠を頭に乗せて。
 コートジヴォワールのアビジャン近郊にある金の発掘に従事する村からアグニ族の人々が何万人も集まり喝采している。
 その中で族長と助手たちが、マイケルに金で散りばめられたカラフルなローブを巻きつけ、2m近い王の笏を右手に持たせた。 白いローブを身に着けた老人と聖女の合唱隊が先祖に加護を求めて詠唱する。



 この、歴史的なレコード売り上げの記録を持ち、 『King Of Pop, Rock and Soul』 の名を持つエネルギッシュなエンターテイナーは、村の御神木の下にある玉座の前に立っていた。 彼は聖書の中の 『放蕩息子の帰還』 のごとく、この先祖の地に戻ってきたのだ。
 王族並みの扱いを受ける名誉 『キング・オブ・サニ』 に称せられ、マイケルは感激し、応えた。 西アフリカの人々の使うフランス語で。
 「メルシー・ボク! キング・サニ!」。
 儀式が終わり、マイケルは村長と集まっていたファンに挨拶するため、少しの間 留まっていた。

 この誇り高い種族は、18世紀に隣国ガーナから亡命してきた。 彼らはコートジヴォワールに落ち着き、王国を興し、君主制を守ってきたのだ。
 「彼らはガーナ・当時のゴールドコーストからやって来た。 黄金は常にアグニ族の力の象徴だった。
  それゆえ、彼らは儀式などの晴れの舞台に沢山の黄金の飾りを身につける。」
と、コートジヴォワールのガイドブックに載っていた。


王立裁判所で長老たちが見守る中、 『キング・オブ・サニ』 は公文書にサインした。
与えられた儀式用の王冠・笏・ローブ・靴・玉座は、自宅ネバーランドへ持ち帰った。



 マイケルはこれ以前に、既にガボンで大統領のオマール・ボンゴより、ガボンの最上級の栄誉勲章を受けていた。
 ボンゴ大統領は、今回の 『エデンへの帰還ツアー』 のホストである。


ガボンでの盛大なパーティーの後、オマール・ボンゴ大統領と接見。
栄誉勲章はこれまで、政府幹部や優秀な外交官などに贈られていたもの。

 その後に、次の目的地タンザニア,そして文明発祥の地で次のビデオ "Remember The Time" の舞台・エジプトへと巡ったのであった。



 マイケルはアフリカ諸国に滞在中、病院の子供たちを見舞ったり、孤児院・学校・教会や精神的な障害のある子供たちの施設を訪問したりした。


 


ヤモウソップのノートルダム平和大聖堂は世界八大驚異の1つで、世界最大の教会。
 カソリック教会で平和の祈りを捧げた後、アレクサンドル神父と。(右下)
 
 マイケルは、この旅行が 『悲劇を利用した広報活動』 にされてしまうことを解っていた。
 アンチ・マイケル・ジャクソンの新聞やTVは意外に思ったことだろう。 マイケルは26人の人を選んで自分に同行させたのだから。 その中には 『JET』誌の記者ロバート・E.ジョンソン(筆者), 『JET』誌・『EBONY』誌・『EM』誌のカメラマン、ジェームズ・ミッチェルもいる。
 

サスペンダーの男性が当記事の筆者、ロバート・E.ジョンソン記者。
 
 マイケルの側近たちは、今回の旅行について書かれた新聞・雑誌の切り抜きを集め、その中の10大デマ話をリストにした。
 それは以下のとおりである。
  1. この旅行はマイケルの慈善行為のPRを目的にしている
  2. アフリカに着いて大騒ぎになってしまったので、早々に旅行を切り上げた
  3. マイケルは混乱し、そもそも何故アフリカに来ることにしたのかを忘れてしまった
  4. マイケルは鼻に手を当ててばかりいた。 それはコートジヴォワールが未開で、不潔で空気が汚れていて病原菌がいっぱいだからだそうだ
  5. マイケルは暑さにやられ、倒れてしまった
  6. マイケルは南アフリカで映画を撮った
  7. ケニアのナイロビで、マイケルはパフォーマンスを中止した
  8. マイケルは人々と握手するのを嫌がった
  9. マイケルがロンドンに行ったのは、病院を予約するためである
  10. マイケルは黒人でもなく白人でもない。 それでは子供たちの良い手本にはなれない
 旅行中の彼を見ていた人は、これらは全く事実と反していてマイケルはどこでも歓迎され喝采するファン達に迎えられていた、と語る。


コートジヴォワールで宿泊したイヴォワールホテルでの歓迎レセプション。
「子供たちは素直で、物ごとを色メガネで見たりしないんだよ。」

 この上品なミュージシャンがそれらを静観していた事に、同行者たちは不満な様子だった。 マイケルは、それらの記事を読むことも拒否したのだ。
 しかし既にアルバム 『DANGEROUS』 の中の "Why You Wanna Trip On Me" という曲の中で、マイケルはこのような事に答えている。
 以下はその曲の一部である。
彼らは僕を変わり者と言う / 
彼らは何も解っていない / もっと大きな、もっと大切な問題があるというのに /
飢えた人々がいる / 食糧が足りないのだ /
僕にかまっている時間なんて無いんだよ

僕らは今まで無かったぐらいの問題を抱えている /
暴力が溢れている / 路上に血が流れている /
ホームレス達がいる / 彼らには食べるものが無い / 彼らには服も靴も無い /
これらのことを無くすために君たちが何をしたか教えておくれ /
なぜ僕にかまうんだい? / もうやめてくれ



アフリカ旅行のスタート地・ガボンにて、喝采する群衆に挨拶するマイケル。
B-707型機のプライベートジェットで巡った4大陸の移動距離は3万マイル。
その11日間、5つの時差に直面するというスーパーハードな旅行であった。

 マイケルの旅行は、鉱物と石油に恵まれた国・西アフリカのガボン(人口106万6,246人) に到着した時からワクワク・ドキドキしたものになった。 10万人以上の熱心なファンが彼を迎えたのである。
 それは旅の終わりの地・東アフリカのタンザニアまで、ずっと同様であった。
 熱狂的なファンのシャイローズ・バンジさんはマイケルと握手し、タンザニア・スタンダード紙の記者にこう語った。
 「彼の手が私の手よりも軟らかいだなんて、とても信じられない。 1週間手を磨いたってあんなになる自信は無いわ。」
 シャイローズさんの手は、もはやただの手ではない。 彼女の手は、先祖の地を旅している愛の親善大使に触れた手なのだ。

 ここではマイケルは人々に会い、その中に入っていき、またファンと触れ合い、抱き合い、キスしたのだった。
 マイケルは 『JET』 誌にこう語った。
 「僕はファンを愛してる。
  ステージにいる時、観客とのやり取りがなければ僕はパフォーマンス出来ない。」
 マイケルはアフリカへ、ステージでパフォーマンスしに来たわけでも、 『DANGEROUS』 のプロモートに来たのでもない。 けれども彼は民衆と・特に、訪問した病院や孤児院の子供たちと 『やり取り』 をしたのだ。
 「動物や子供たちには、ある種の感覚がある。 彼らは僕に、クリエイティブな活力,力を与えてくれる。
  それは世の中の常で、大人になると無くなってしまうんだ。」
と、才能豊かなパフォーマーは言う。
 「“子供たちを見ていると、神がまだ人間を見放していないことが私には判る”。 インドの詩人(ラビンドラナート)タブールの詩だよ。 僕も彼と同意見だ。」
 この事でも、マイケルが博識だということが判る。 マイケルは、訪れた街々で本やビデオを購入してきたのだ。

 愛と平和の歌を歌うマイケルは、タンザニアに着いた時、自分が 『平和の天国』 を宣言する国にいることに気づいた。
 タンザニアの首都ダルエスサラームに到着し、マイケルの側近は急いでタラップを降り、空港に集まった大勢の人々を整理しているセキュリティーについて半袖のサファリ服を着た男に尋ねた。
 「警官と兵隊はどこにいるんですか?」
 「私が警官です。」
と、彼は胸の銀バッジを示した。
 「銃はどこにあるんです?」
 「私たちは銃を携帯していません。 私たちは文明人ですので。
  ここには軍人はいませんよ。 私たちはマイケル・ジャクソンさんと戦争するつもりはありませんから。」


タンザニア・ダルエスサラームの空港に到着。 この国の公用語は英語。
マイケルの側近は、警備の警官が銃を持っていないことに驚いた。
 
 タンザニアに来る前に、この国の大統領アリ・ハッサン・ムウィンイ氏がマイケルを招待したという事,アメリカで彼が西アフリカ諸国は優れた観光地としての可能性が大いにあると語った事などの経緯があった。
 ムウィンイ大統領は、マイケルのタンザニア旅行はこの国における今後の観光事業の可能性を示唆してくれるはずだ、と述べた。
 「帰国した時、自ずとあなたはタンザニアでの野生動物に囲まれた豪華な旅の宣伝特使となっていることでしょう。」


タンザニア (カリフォルニアの面積の約2倍) のアリ・ハッサン・ムウィンイ大統領と会談。
ムウィンイ大統領は、タンザニアを 『平和な天国』 であり、国勢も安定していると語る。
 
 マイケルは動物たちを・特にチンパンジーを愛しているので、自分の 『Heal The World基金』 の一部を、動物保護基金と子供たちの基金に寄付することを約束した。
 後者への約束は、シンザ精導児センターを訪れた後、より固く決心した。


 ファンが何百人もビルを取り囲み、センターまでの道の両側にも沢山のファンが連なった。
 センターでマイケルは驚き、大いに興奮したのだった。



 ケニアに行く直前になってマイケルは、この夏から始まるワールドツアーの急ぎ仕事があることを理由に、突然スケジュールを変更し、ロンドンに行くことにした。
 後になって判ったことだが、ケニアの大統領ダニエル・エイラップ・モイ氏と、内紛の続く隣国ソマリアからの政治亡命者たちと彼らの反対勢力者たちとの政治的な争いに、マイケルは巻き込まれそうになったのだった。
 にもかかわらず、マイケルはこれは単なる延期で、しかも将来公演をするつもりでいると告げた。



 ロンドンに出発する前にボブ・ジョーンズは、物議をかもし出した 『間違った報道』 を正した。
 その報道とは、マイケルが鼻を押さえるのは 「彼が先祖の地の臭いに耐えられないからだ」 というものだった。
 ジョーンズは    クインシー・ジョーンズが付けたマイケルのニックネーム 『スメリー』    あれは単に、ナーバスになった時のクセだと述べている。
 「ミスター・ジャクソンは5歳の時からステージに立っていますが、彼は内気な人間なんです。
  本当に臭いなと思ったら、我々はここには居ません。」



 ボンゴ大統領の相談役チャールズ・ポビット氏はジョーンズと相談の上、この旅行を提案したのだった。
 大統領は入国を許可し、息子のアリと 娘で外務大臣のマドモアゼル・パスカリーヌがマイケルに同行することを許可した。
 「アリの実用的な知識・情報・判断力・そして流暢なフランス語は、彼を成功へと導くでしょう。」
と、ポビット相談役は語っている。


 ガボンの外務大臣でありボンゴ大統領の娘、マドモアゼル・パスカリーヌ・ボンゴ。(左端)
今回の旅でのスポンサー達のコーディネーターで、ガボンでマイケルの側近として同行。

 さらに彼は、マイケルの願いは
 「各市の孤児院や小児病院を訪ねることでした。」
と語った。
 またさらに加えて、
 「マイケルと子供たちとの交流には感銘しました。 マイケルは、障害児たちや病気の子供たちのベッドに座って、彼らに話しかけ、抱きしめ、寄り添い、彼らの手を握りしめました。
  アメリカで時々着けていた外科用マスクは着けていませんでした。 そこには何の危険もありませんから。 マイケル・ジャクソンの神話には、彼が病原菌を恐れているというのがありましたね。 それは全くのデタラメです。 彼が気にかけているのは、(病原菌ではなく) 子供たちなのですから。」


ガボン・リーブルヴィルのオーエンド小児病院を訪問

 「多くの人々は口先だけです。 でも彼は実行します。 彼は気にかけているのです。
  彼のそのような所こそ、子供たちの良いお手本となるのです。 彼の外見ではなく、その行為が。」

 「『JET』 誌と 『EBONY』 誌の方々と行動が共に出来て、大変嬉しく思います。
  皆さんはこれらのことを世に広めてくれるでしょうから。」

・・・ END ・・・


事後、マイケルはこのアフリカ旅行について語っています。
【MJ Talks】 内 "EBONY誌 '92" も併せてご一読下さい。

UPDATE - '08.10.09