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UPDATE - '08.08.04
【 Children's Choice Awards '94 】
( '94年4月28日 )
― 和訳 : 『 Right On ! 』誌 '94年11月号より ―
( VOL.72 / Feb 1995 )
'94年4月28日(木)、ニューヨークで開かれた 『第2回チルドレンズ・チョイス・アワード』 で “ケアリング・フォー・キッズ賞” を受賞しました。
この賞は、ニューヨークに住む子供たち10万人の投票によって選ばれたものです。 恵まれない子供たちへの多額の寄付,アメリカ黒人カレッジ基金など、さまざまな慈善活動に対し表彰を受けたのです。
『JACKSON FAMILY Honors』(※同年2月19日) の時の衣装で現れたマイケルを、会場に参加していた子供たちは “子供を守る代表者” として熱い視線を送り、マイケルのスピーチに耳を傾けていました。
マイケル・ジャクソンはマスコミを賑わせてきたけれど、エピック・レコードがニューヨークに移り、そこで静かな生活を取り戻せたようだ。
彼はニューヨークに着いてすぐ、ボディ・スカルプト協会の創設者ヴィンセント・ファーギーソンを知った。
ボディ・スカルプト協会というのは子供たちへのドラッグの汚染を食い止めようとしている団体で、定期的にニューヨーク・ニュージャージーの学校の10万人の子供たちを調査している。 そしてその学校からマイケルは彼らの “模範となる人物” に選ばれた。
マイケルがこの授賞式に出席するよう骨を折ったのは、ボディ・スカルプト協会の広報のアンジェロ・エラービーだ。
そして賞のプレゼンターは誰にすればいいのだろう…
… 『Right On!』誌の編集長でマイケルの古い友人であるシンシナ・オーナーに、白羽の矢が立った。
私は、そう年中マイケルと会っているわけではない。
世間の人と同じように子供虐待のニュースは何度も耳にしていたけれど、無罪が確定しタブロイドから彼の名が消え、本来の仕事を再開するまで彼との距離をとったままにしていた。
マイケル自身が授賞式に出席することはないけれど、今回はこの催しの性格上、スポンサーでもあるボディ・スカルプト協会のサポートをしなくてはと思ったようだ。
ボディ・スカルプト協会の創設者ヴィンセント・ファーギーソン氏がマイケル側のボブ・ジョーンズ氏に連絡をとった折、マイケルの出席を承知してくれただけでなくスピーチもしてくれるというのだ。
そして私は、何千人もの前でマイケルに賞を与える役を頼まれた。 マイケルに会って元気づけられると思うと、とても嬉しかった。
その日は、とてもエキサイティングな一日だった。
私はサウンドチェックやリハーサルをしながら、髪をセット出来るようカールしてもらっており、そこにスピーチのリハーサルをしていた子供たちが寄ってきて 「マイケルはいつ来るのか」 と訊いてくるのだが、私には判らない事だった。
シティ・センターで開催された 『チルドレンズ・チョイス・アワード』 のチケット (コピー)
ついにショーの時間がやってきて、私はバックステージへと行った。
すぐにスピーカーが私の名を大声で呼び、急いで階下に行くと、ボブ・ジョーンズ氏とリー・ソルターズ氏に会い、ここで少し待っているように言われた。
「部屋を用意しておいた方がいいよ」。
何なんだかよく解らなかったけど言われるままに立っていると、マイケルのガードマン2人の姿が見えた。その後ろはもちろんマイケルだ。
私が空いている部屋に案内すると、長身の細い体が飛びついてきた。 私が悲鳴を上げると、マイケルは笑い出した。
「驚いた?」。
私はマイケルの手を掴んで握りしめていた。 マイケルは笑って
「モデルみたいだね」
と言い、私のセットしたての髪に触れた。 そして ―
「ジャネットみたいな髪だね」
と 。
泣きたいような気分だった。
マイケルは、私の知っている昔のままの彼だった。 ほんの少し歳を重ねたけれど、以前と変わることなくいたずら好きな子供のまんまだった。
私は、マイケルが音楽を聴いて楽しめればいいと思い、ニューヨークのクラブへ行く相談をしたが、すぐに “そんな時はマイケルは変装しなくてはならない” ことに気づいた。 彼のためというよりも、素顔のマイケルを世間へ見せられると思ったのに。
それを話すと、マイケル自身もその事は考えたことがあるということだった。
あっという間に時が過ぎ、ボブ・ジョーンズ氏が私に出番を告げに来た。
マイケルは、
「なんてスピーチするつもり?」
と訊いてきたけれど、正直なところ私自身にも判らなかった。
「じゃあ、ステージでね」。
予定では、私は子供たちを連れてステージへ上がり、そのうちの1人がマイケルのこれまでの歴史を読み上げ、それに私のコメントが続き、その後ヴィンセント・ファーギーソン氏が加わってマイケルに賞を手渡す、というものだったが、それは変更となった。
プロデューサーは私に、ステージに出て行ってアドリブで何かを話せというのだ。 私が時間を引き延ばし、マイケルが隣に来たら賞を授与しようというのだ。
私は息を深く吸い込み、スピーチ台に上がって紹介を始めた。
「今、マイケルの控え室から出てきました 」
私の声は、歓声に掻き消されてしまった。
協会へのマイケルの貢献を話していると、マイケルがステージに出てきた。 すごい歓声で、鼓膜が破れるかと思った。
子供がマイケルの歴史を読み上げようとしたけれど、何も聞こえず、ほとんど不可能だった。
マイケルはスピーチ台に上がったのだが、カメラのフラッシュに驚いて私の手を握った。 それを見てみんなが叫んでいた。
「彼女の手を取ってるわ!! 」。
私たちは笑ってしまった。
ピンクベージュの女性がシンシナ・オーナー編集長。 隣は協会創設者ヴィンセント・ファーギーソン氏
大騒ぎをしているファン達にマイケルは挨拶をし、私がマイケルに賞を手渡すと彼はガードマンに囲まれてステージを降りて行った。
音楽が流れてショーは終わったが、たくさんの人がマイケルを探して詰めかけたバックステージは悪夢のようだった。
その夜、家に帰ると11時のニュースを観た人たちがメッセージを寄せていて、次の日のデイリーニュース紙とニューヨークポスト紙には私とマイケルの写真が載り、その写真は世界中に流れ、飛行機の中でも目にすることが出来た。
夢のような一日で、マイケルとの想い出がひとつ増えた。