【 Making of "DANGEROUS" 】
(Rolling Stone誌 '92年1月号より抜粋)
( VOL.40 / Feb 1992 )

 ニューアルバム完成への道のりは長い。
 マイケル・ジャクソン、この世界で一番の超大物スターも、何万といるファンが満足するようなビジュアルやサウンドの斬新で新鮮な何かを見つけなければならない。しかもファンの多くは、以前のイメージを強く持っているのだ。

 マイケルの解答は、全ての人々にアピールするアルバムを創ることだった。
 アルバムの半分の曲は、それ以前の彼と同じ曲調 (“Heal the World” は “We Are The World” の明らかな焼き直し。 “Who Is It” は “Billie Jean” と同じ手法。 “Black or White” は “State of Shock” を連想させる。) にしたのだ。
 そしてさらにマイケルは切れ味の鋭いストリート・ビートを創り出すテディ・ライリーを、よりアルバムに時代性を持たせるために引き入れたのだった。
 その上、ニューアルバムが “King Of Pop” にふさわしいと知らしめるために旧友ジョン・ランディスを再び呼んだのである。

 ランディスにまだはっきりとした構想の無かった時から、 “Black or White” でマイケルがやろうとする事の製作費は700万ドルは下らないものだったという。(エピックレコードのデイブ・グリュー社長、つまりマイケルの契約相手はこの金額を否定しているが、実際の製作費は公表されていない。) おまけに撮影に約2ヶ月もかかったのだ。


 撮影期間中、多くの有名人がセットに訪れた。ポール・マッカートニー、ナンシー・レーガン、オージェイズ、エマニュエル・ルイス。そしてもちろん最新の友人、“ホーム・アローン” のマコーレー・カルキン。彼は “Black or White” に出演しただけでなく、アルバム “DANGEROUS” のジャケットにも登場している。
 「マイケルは有名人を引きつける磁石なんだ。」
と、ランディスは言う。
 そしてクスクス笑いながら、こうも言った。
 「7フィートの大きなスピーカーの1つを点検していた時、マイケルは歌を流していた。 ナンシー・レーガンがスピーカーの正面のちょうど良い場所に立ったんで、私は大声で言ったんだ。 “プレイバック!”って。 思ったとおりになったよ。」


元ファーストレディの方は果たしていずこまで


 “Black or White” は、1曲分として最もビデオ製作費のかかった作品となった。特に出演者やクルーの費用のために。ランディスも、タイトルを “ベン・ハー” と入れても信じられる位の費用だと言っていた。
 一番お金のかかったのは、男が女に変身したり、マイケルが豹に変身する “モーフィング” という技術だった。


 撮影を始める前に、ランディスとクルーがロケ地を決めるのに数日かかった。
 ある電話をもらう時点まで、ランディスには全く知らされていなかった事があった。
 「その時に私は初めて知らされたんだ。マイケル・ジャクソンが日本のソニーのTV製品のCM撮影をしているという事を。」
 マイケルは既にアルバムを完成させていたのだった。



 「スケジュールが大変だったよ。」
と、ビンセント・パターソン。彼は “JAM” のショートフィルムの監督をする予定だ。ソニーは “JAM” をシングルカットするつもりなのだ。
 「俺たちはマイケルがアルバム製作中、ずっと待機してたんだ。アルバム製作が最優先だったからね。それでビデオの方が大騒ぎさ。マイケルが18時間スタジオにいたらこっちは何も出来ないから、彼をセットに連れてきて撮影するんだ。彼、ぐったりしてヘトヘトに疲れてたよ。でも俺たちは、どんな事をしてでも撮影しなきゃならなかったんだ。」
 「ステージ・装置・人を揃えたら、それぞれに必要なだけ金を支払わなくちゃいけない。何かをする時は必ずそうするものなんだ。費用の殆んどはそれらに使った。20万ドルだぜ!」



 ランディスが言うには、問題のラスト4分間は、完全にマイケルのアイデアだそうだ。
 「マイケルは、より性的な表現をしたがっていたんだ。」
 さらに彼らの撮ったダンスには、もっと過激なものがあったという。
 抗議のあった部分 ― ラストの部分すべてはマイケルの判断でカットされている ― について、ランディスはこう言っている。
 「マイケルが何をやったかではなく、暴力的なマスターベーションの真似ごとをしたという事を問題にすべきなんだ。もちろんマイケルがやったのは事実だけど。マイケルの意図について私たちは話し合ったりはしなかった。 “僕はこうしたいんだ” って言われれば、私は彼にしたい事をさせるだけさ。」



 「マイケルは、我々がアルバム “BAD” を完成させた日から、次作の製作をスタートしたんだ。」
と語るのは、プロデューサーの1人であるブルース・スウェーディン。
 「次の日にはデモテープを創っていたよ。」

 そもそも、'89年のクリスマス前に “DECADE” というヒットソング・アルバムに新しい曲を4曲入れるという計画だったのだ。マイケルは何曲か新曲を書き、それがアルバムの価値を非常に上げたのである。
 マイケルは仕事仲間やソニーミュージックの重役たちに相談し、自分の書いた新曲はアルバム1枚を創るのに充分な力があると判断したのだ。
 かくしてヒットソング集はお流れになった。

 予約していたスタジオは、高額なスタジオの何分の1かの値段の所だった。
 マイケルはそこで “DANGEROUS” のために約60曲を録音した。
 テディ・ライリーとブルース・スウェーディンの他に製作に参加したのは、ビル・ボトレル、ブライアン・ローレン、L.A.レイド、ベビーフェイスらだ。

 ビル・ボトレルは、マイケルとの仕事をこう評している。
 「常にマイケルは、私に新しい歌を歌っているか、新しい曲のアイデアを話しているかしていました。素晴らしい時間を過ごした!としか言いようがありません。」
 さらにボトレルは、“Black or White” は アルバム 「BAD」 のために書いた曲を練り直したものだったという。
 「スラッシュがプレイしているオープニングの部分は、マイケルの家で録音したんです。'89年8月でした。マイケルは私に、丸天井の部屋の外で録音できるか訊きました。彼はその時からそれを “Black or White” のイントロに使うつもりだったんです。スラッシュに演奏を頼む ずっと前のことでした。」
 ボトレルは、マイケルとスラッシュが一緒に仕事が出来るように手配した人物である。
 スラッシュは、“Black or White” の演奏者として名前が入っているが、実際にはイントロの部分だけにしか参加していない。スラッシュの録音にマイケルは立ち会っていなかった。
 「とてもがっかりしてましたよ。マイケルがいない事が不満だったんです。」

 それから1年しないうちに、スラッシュはマイケルから電話を受けた。彼は “Give In To Me” というパワフルなバラードのソロを頼んできたのだ。
 「マイケルは俺に、ギターの音が入っていない ゆっくりとしたピッキングだけが入っているテープを送ってくれた。今度は俺がマイケルに電話して、電話ごしに俺のやりたいギター・ソロのスキャットを歌ったんだ。」
と、スラッシュは言う。
 けれど、スラッシュはソロを録音する時間が取れなかった。
 「俺、アフリカに行ってたんだ。スケジュールの調整がうまく付かなくてね。彼らは俺の起用をボツにしようとしたけど、マイケルは俺がアフリカから戻ってから録音できるようにとうまく取り計らってくれたんだ。俺は飛行機から降りたその足でスタジオへ行ったよ。」
 「俺は基本的に、スタジオ入りしてすぐプレイする方なんだ。そうするのが当たり前になっているんだよ。マイケルも、そういった俺みたいなやり方が好きみたいだな。彼は俺にそう望んだんだ。何の制約も無かった。」
 「マイケルと俺は、実に息がピッタリなんだ。俺はギター・プレイヤーの為のヘヴィ・メタル学校出身なんかじゃない。俺のやってる事の全ては、マイケル・ジャクソンと同じ所で学んだんだ。俺たちは多分、別々の方向を目指したり別々の立場にいるんだろうけど、肝心なのは、みんな同じ所から来たって事なんだよ。」



 スタジオでのマイケルの仕事ぶりは、実に巧妙である。
 実存の力を信じる (マイケルのネバーランドのオフィスには、自己救済の導師ウェイン・ダイアーの “The Sky's The Limit” , “You'll See It When You Believe It” などの一連の著書があった) マイケルは、自分が何かを嫌う態度をしたり口に出したりは、全くしない。
 「マイケルは、否定的になることが好きじゃないんです。」
と、ボトレルは言う。
 「彼には、自分の信念があるんです。誰にでもそういったものを身につけることは可能です。部屋から出る道は1つだけなのですから。」

 マイケルの曲創りの方法は変わっている。
 「彼はまず、サウンド・曲など、音の面から始めます。次には歌詞ではなく、曲のサウンドと全体のアレンジを頭の中に浮かべるんです。私は珍しい方法だと思っていますが、マイケルにとってはいつもどおりの方法なんです。歌詞は最後です。彼だから可能な声でハミングしますが、歌詞を歌うんじゃないんですよ。ドラムのパートとかシンセサイザーのパートを歌うんです。彼は、実にうまくそれらの雰囲気を出すんですよ。」
 マイケルは、自分の創った曲の出来が良くて幸せな気分の時、踊り出したい気持ちを隠したりしないそうだ。
 「そんな時マイケルは、その辺のごく普通の若者のような表現をするよ。」
と スウェーディン。 「彼にはそんなところがあるんだ。」

 「マイケルはグルービィな仕事がしたかったんだ。」
と言うのは、テディ・ライリー。
 「で、俺は10曲ほどグルーブなヤツを持って行った。マイケルは全部気に入ってくれたよ。」
 「テディは素晴らしいプロフェッショナルだ。」
と、スウェーディンは言う。
 「何の問題も無かった。ある時テディがグルービィな曲を1曲持ってきた。だが我々はそれはあまりピンと来ないって言うと、不平も言わずに帰ったんだ。次に来た時に持ってきた曲に我々はびっくりして、手元にも “Dangerous” に似た曲があったんだがそれをやめてしまったよ。」

 マイケルは音楽を聴く時、窓ガラスが割れるような音量で聴くのだ。
 ライリーはスタジオでそんな目に遭ったという。
 「マイケルは、俺より大きな音で聴くんだ。俺のボリュームのレベルは9~10。マイケルのは20ぐらい。ありゃ20以上だな。彼はでかい音で音楽を聴くのが好きなんだ。それに ≪JAM≫ が!」
 「その曲が良い音楽かどうか、はっきりさせる方法があるよ。マイケルがスタジオ中を踊り回ったら良い音楽なんだ。 “イェー! ワォ!” って始めたらね。」

 マイケルとライリーが一緒にいれば、彼らはただひたすら曲を創り続けるのだ。
 「もう締め切りギリギリだったのに、マイケルはもっと曲を創りたがっていたんだけど彼のマネージャーが来てこう言ったよ。 “テディ、君とマイケルだ。君たちのそのコソコソやってるヤツは、もう仕上げなくっていいよ。もう曲は書くな” って。それはデヴィッド・リンチの監督の “Dangerous” のビデオを撮っている時期で、俺たちはそのハードな仕事をやめる事にしたんだ。」



 アルバム製作の最後の2ヶ月は、マイケルとスウェーディンはスタジオから4分のホテルに部屋を取っていた。
 「我々は車でスタジオへ行き、もうこれ以上は出来ないって時まで仕事をしたよ。 で、ホテルに戻って眠り、朝にはまた行って… それの繰り返しだった。」

 ある日スウェーディンは、スタジオ “レコード・ワン” のマイケルのオフィスで、マイケルが泣いているところを見つけた。彼は気が動転していた。というのも、彼が歌おうとしていた曲のキーが合わなかったからだ。
 「その日マイケルは “Keep The Faith” のリード・ボーカルの録音をするはずだったんだ。1節目と2節目を歌ったところで、彼が消えてしまった。それは全く彼らしくない事だった。オフィスの隅に立っているマイケルを見つけた時、彼は泣いていたよ。悲嘆に暮れ、ひどく傷ついていたんだ。」
 「私は彼にこう言った。 “マイケル、大したことじゃないさ。他のキーで録音すれば良いんだから” と。 2つのキーで試してみたが、残念ながらどちらも合わなかった。彼は本当に動転してしまったので、“マイケル、面目を潰さない方法はあるよ” と言って、シンセ・プレイヤーとプログラマーを呼んだんだ。合うキーを見つけ、無様な様子をさらけ出すような事になる前に、マイケルの面子は立ったのさ。」
 「我々は大きな難問にぶち当たっていたんだと思う。マイケルに言ったよ。 “出来るだけの事をして頑張るんだ” と。 しばらくしてからまた言った。 “君が全てのやり方で歌ってみるまでは、家に帰るのはやめよう。そのあと家に戻り眠って、また続きをやるんだ” とね。脅し文句さ。でもマイケルはちゃんとそうしたよ。彼は出来る限りのことをした。我々はスタジオに行き、全く新しいデモを創り、あらゆる歌い方のボーカルを録音した。あれこそ難局だったね。我々は倒れるまでスタジオから離れなかったよ。」

 感謝祭の前の発売までに、アルバムを完成させなければならなかった。
 「マイケルにはアルバム発売日という大きなプレッシャーがあった。」
と、ジョン・ランディスは言う。
 アルバムが完成したのは、'91年10月31日の早朝だった。
 「マイケルは言った。 “カボチャが煮えたよ”(ハロウィンに引っ掛けて) とね。 このプロジェクトの最後の3日間、マイケルと私は4時間ぐらいしか寝なかったんだ。」

 マイケルは “DANGEROUS” に賭けている。
 彼は、そのアルバムがポップスの宇宙船となるのを願っているのだ。その船が彼を、想像も出来ないほどのレベルのスターダムと人々の喝采へと導いてくれるのを願っている。
 “Black or White” のショートフィルムで、早くもマイケルは大衆の注目を一身に浴びている。
 アルバムの成功 ― 来年('92年)あたりはシングルが続けざまに電波から流れてくるだろう ― は、彼の音楽業界の地位を不動のものとし、キャリアを次の段階へと進ませる。つまり映画スターへと。 マイケルは彼の良き友人、エリザベス・テイラーやキャサリン・ヘップバーンのようなスタンダードな映画スターになりたいのだ。
 今はまだ、彼の望むような形の映画スターが生まれる時代になっていない。今日のスターはプライベートがオープンにされ、それが公的なイメージになってしまっている。

 ランディスによると、マイケルも ― 承知でか そうでないか判らないが ― 大衆に性別から顔のことまで、個人的なことを議論や論争にネタに提供してしまっている。
 大人になってからの最初のソロアルバム “OFF THE WALL” が '79年にリリースされた時から、魅力的なイメージを作る試みがなされている。彼は文字どおり、自分の顔を作り直したのである。
 私たちは彼のその時その時の新しい容貌を見てきた。当然ながら、彼は白人になろうとしているとか ルーツに戻るべきだ等と批判されてしまった。
 テディ・ライリーは “DANGEROUS” 製作中に、マイケルが自分の顔や肌の色についてたくさん話をしたと言っている。
 「もしマイケルがもう一度元に戻すことが可能なら、その時にはもう彼は顔を変えないと思う。元に戻りたがっているって事じゃない。一度顔を変えてしまったら元には戻せないよ。本来の顔や肌は戻って来ない。それでも彼はマイケル・ジャクソンなんだ。誰もがああなりたいと思うほど才能の溢れる男なんだ。」

 まさにこれらの事はマイケル自身を表している。
 アルバム “DANGEROUS” のジャケットにある動物たち・天使たち・黄金の玉座・宝石のついた王冠・骸骨・びっくりハウスの乗り物、その全ては、巨大なマスクの後ろに隠れたマイケル・ジャクソンである。そこからマイケル・ジャクソンは世界を見つめているのだ。
 1つ、私たちがマイケル・ジャクソンに関して確信している事がある。彼は、世界中の人々が熱愛する音楽を創り出すケタ外れの才能を持っているという事だ。
 マイケルは自分の才能を信じているのだ。何にも増して、彼が20年以上スターダムにいる事がそれを証明している。

・・・ END ・・・

UPDATE - '07.11.02