【 『ジャム』誌 独占インタビュー 】
(1980年8月号より)

( VOL.28 / Jan 1991 )



■ 心に "孔雀" をもつ褐色のエンターティナー ■

 木曜の昼下がり。
 ここハリウッドの誇る高級スタジオでは、ジャクソン家の5人の息子のうちの3人 - マイケル・ティト・ジャッキーがテーブルを囲んで、熱帯色豊かな健康食のスナックをほおばりながら、ファンクラブから届いたばかりの質問の山に目を通してはクスクスと声にならぬ笑いを浮かべている。


 ジャクソンズにとっては、音楽は常に万病の妙薬・あらゆる病も人の心の歪曲も音楽が癒してくれるかもしれない。

 マイケルが語った。
「僕は、音楽なら全て大好きなんだ。どんなタイプの音楽だろうと、その1つ1つが地球上のどこかに自分の場を持っていると思う。本当だよ。
 ねぇ、僕の言ってるとおりに書いて欲しいんだ。
 子供に向かって、この子は白・この子は黒・この子は日本人、って言うようなものだよ。みんな子供は子供じゃないか。人種差別を連想させられるよ。レッテルなんかゴメンだね。とても馬鹿げてるよ」
 となると、『Destiny』の裏ジャケットにある、マイケルとランディの添え書きももっともであろう。
「鳥の中で、色という色を1つに出来るのは孔雀だけだ。
 僕たちは、この孔雀のように全ての肌の色を音楽への愛を通して1つにしたい」

 この考えは、ニュー・ウェーヴにどう反応するかという私の質問に、答えとなって表われた。
 例えば、ある種の音楽のファンが、次に登場してきた新しいフォームを非難する。ビートルズファンがパンクを槍玉に上げるのはやむを得ない事なのか?
 ティトは、話を逸らしてふざけてみせた後で、キリキリと語尾を引き締めた。
「音楽は、何といってもアイデアが勝負なんだ。前人未到の境地を切り開く努力が必要なのさ。何かオリジナルな事をやろうとするには、それしかないよ。
 ごらん、'50年代にリトル・リチャードが成し遂げたものを。当時は沢山の人が批判したね。でも、今じゃクラッシックさ」


 ジャクソン家がいかに芸能一家といえども殆んどが音楽に限られていたが、近ごろでは兄弟は、他のメディアにも関心を拡げつつある。
 例えばマイケルは、先ごろ映画『The Wiz』に出演し、以来フィルムの形で後々残っていくという映画の永久性に味をしめてしまったようである。
「フィルムは永久に残るからね。早く次の話が来ないかとウズウズしちゃうよ。
 ツアーに出れば凄くエキサイトするよ。でも終わればその興奮も消える。
 だけど映画をやると、その期間・瞬間が永遠に釘づけされるんだ。スターは死んでもね。そう、チャップリンの映画は、彼の生前そのままに永久に息を繋いでいくのさ」

 兄弟各自が、実は少なからずこの味をしめてはいるらしい。
 1人1人がビデオを持っていて、過去10年間にわたって自分たちの出演したTV番組は録画して残してあるそうな。
「ものすごく小っちゃい頃のエド・サリバン・ショーからあるよ。何につけてもキャッキャ笑うんだよ」
とティト。
「そうそう、子供の頃の自分を垣間見るのは何とも妙な気分だよ」
とマイケルが続いた。
「ダイアナ・ロスのスペシャル番組で、最高のバスケットボール・ゲームをやったんだ。
 図体の恐ろしく大きいスポーツ選手ばかり、ラムズのロージィ・グリーヤー、レイカーズのエルジン・ベイラー、ライダースのベン・デビットソン、それにバスケットの選手で6フィート9インチもあるビル・ラッセルもいたよ。彼のボール捌きはものすごかった。
 もっとも、リズムに合わせて歌を歌うことは出来なかったけどね」
 そう言ってマイケルはくすくす笑うと、突如ジャッキーが口を開いた。
「ねぇ、おまえあのテープ持ってんの? コレクションに1本欲しいなぁ。今度来た時テープに録らせてよ」



 マイケルにしろ他の兄弟にしろ、レコーディングにかけてはもうすっかり手際を心得てしまっていて、自分たちのアルバムを自分たちでプロデュースするまでになった。
 マイケルはソロ・アルバムで、今やコ・プロデューサーとして歴史にその名も轟くクインシー・ジョーンズと肩を並べている。
 2人が出会ったのは、映画『The Wiz』を通して。

「僕たちの根気が報われたんだ」
 プロデュースの成功にご満悦のマイケルは語る。
「いいかい。僕は小さい頃からずっと一流の人たちに混じってスタジオに出入りしてた。ギャンブル&ハフ以来ずっとね。
 僕はただ身体で覚えていったんだよ。じっと見てるだけで勉強さ」
 この自力本願の兆候は、スティービー・ワンダーに源を発していると言っていい。
「よくスティービーのセッションを覗いては、たまげて帰って来たものだよ。スティービーはその場にどかっと腰を据えて、何でもやっちゃうんだ」


 ジャクソンズは世界のあちらこちらをツアーで回っているが、特に日本について語る時、彼らの言葉は一段と熱くなった。
「ステージ以外では日本の人たちってとても温かくて、至れり尽せりなんだ。ステージでは目を見張るような反応がある。
 音楽は万国共通語だって言うけどさ、本当に、僕たちが演奏してる間は言葉の壁を超越してると思いたいな。
 でもさ、日本の人たちの中には、とっても流暢に英語を話す人がいっぱいいるんだよ。すごくびっくりしちゃった。きっと学校か何かで必要なんだろうね」。

「僕は空港での出迎えがいちばん感激したな」
と言うのはジャッキー。
「ビートルズがアメリカへやって来た時のことを思い出させる気分だった」


73年4月22日、『東京音楽祭』出席と東京・大阪・広島公演のため初来日


 プライベートになるとジャクソン兄弟にライバル意識のかけらも見当たらないのは、実に驚かんばかりだ。
 ランディの早熟に気づき、曲の共作を勧めたのはマイケルその人であり、その結果は言うまでもない、あの『Shake Your Body』のスマッシュ・ヒットとなる。
 同様に他の兄弟たちも、マイケルの一人旅を気に留める節はない。
 彼らは、マイケルには成し遂げるべき彼独自の創造の道・進むべき別の方面があると認めているからだ。

「学びたいことが山ほどあるんだ」
 マイケルは目を輝かせて言った
「とりわけ、クインシーとは是非やりたいと思ってた。
 クインシーはね、巨匠なんだよ。映画のスコアを何本も手掛けたことがあって、クラッシック・ポップス・ジャズ・ソウル、果てはオペラまで、何でも知ってるんだ。芸術家なんだよ」
 なるほど。マイケルが求めていたのは、この種の孔雀だったというわけか。


 そうしてアルバムの数は増え、名声は溢れる川のごとし。
 明日にでも引退しようが、まず金に困ることのない彼らだ。
 だが、彼らにはこの先何年も、運命の果てるまで突き詰めるべき創造の道のりが控えている。
 そして彼らにとって何よりも重大なのは、ランディが1日も早くステージに上がって、彼らと共に『Shake Your Body』出来るようになること。(※'79年3月に車で大事故を起こし、右足切断寸前の重傷を負いリハビリ中)
 その日のためなら、手中に握りしめた富と名声を全部投げ出してもいい。彼らからはそんな気概さえ伝わってくる。

UPDATE - '06.11.22