三條さんインタビュー part.2
【インタビューしちゃったぁ!! 三條さん2 の巻】

( VOL.20~22 / Apr~Jun 1990 )

今月は、マイケル来日中、マイケルのごはんを作った三條さんの再登場であります。
昨年(※'89年)5月、六本木の音羽亭をお訪ねしてお話を伺いました。
まずは会報の最新号を手渡して見て戴き、インタビュー開始です。

S … 三條さん    ―― … インタビュアー

―― VOL.9~11の三條さんのインタビュー記事が、すごい好評なんです。他ではなかなか聞けないお話をして頂いたので…。
みんなマイケルのこんな事が聞きたいんですよね。
たまたま続けて2回('87年と'88年)、そして'88年は向こうから指名してきましたので…。
―― どういう過程を経てこちらにお話が来たのですか?
音羽亭の宣伝関係(パブリシティ)をしているM氏と マイケルの呼び屋のSさんとが知り合いで、マイケルが大阪で風邪でダウンした時、M氏は音羽亭を知っていたし、また僕が英語を話せるのも知っていたので、SさんからM氏へ電話がありました。そして僕に、ニューオータニへ行ってくれないかということになりました。
僕とSさんとSさんの奥さんの3人で面接に行き、ビル・ブレイに会いました。風邪で倒れてコンサートが出来ない状態なので、何とかマイケルのごはんを作って欲しいという事だったんです。
だから音羽亭のパブリシティからの要請だったんです。
―― その時、他にも面接を受けた人はいるんですか?
他には候補はいなかった様ですね。
ニューオータニのコックさんにも話をしたみたいですが、もともとホテルからは採らないということだったらしいです。
―― 三條さんの英語はどこで身につけられたんですか?
20歳から24歳位まで6年ほど海外で船に乗って、無線通信をやってたんですよ。公務通信などで英語が必要だったんです。
25歳でこの業界に入り、いま11年目。シンガポールやアメリカ,オーストラリアで料理人をしていました。
―― 個人的にはどんな食べ物がお好きですか?
そうですねェ、豆腐とか納豆です。
―― ご家庭でもお料理をなさるんですか?
まぁ、家庭サービスで月に1度か2度。
―― 急にアーティストの食事を作ることになって何か抵抗みたいなものはありましたか?
ビート・イットとかを歌っている人だ位は知ってましたが、どの位有名な人なのかは知りませんでした。
彼が帰った後、USAのチャートなんかを見て、ああ有名な人なんだと一番強く感じましたね。
ただ、作ってくれと言われた事に対しては抵抗はありませんでした。
―― 初めてマイケルに会った時の様子を教えて下さい。
面接でOKが出て、最初に20種類ぐらい作って出しました。
ビルに砂糖は使わないでくれとか(VOL.9参照)言われていたので、その条件の中から味噌汁とか豆腐のステーキなどを作りましたが、一体何を食べるのかさっぱり判らないので、いろいろ作って出しました。
そしたら、「これを作った人に会いたい」とマイケルが言って、呼ばれて部屋に行きました。
そしたら、部屋の中は真っ暗なんですよ。暗闇の中にお医者さんが居て、看護婦さんが居て、奥にはビルとチャッキーが居て… 物々しい雰囲気でした。
マイケルの所だけ枕元にスタンドが灯っているわけです。マイケルは、横たわっているというかベッドに寄りかかって寝ているわけです。
パトリック(当時の通訳)が僕を紹介してくれて、「この人たちは、仕事場に入る時はこうして白衣を着るんだ」と説明しました。清潔感があるという事でマイケルに非常に気に入られた様です。
そして僕は料理の説明をしたんです。
―― 先入観がないまま初めてマイケルに会った時の印象は?
作って出してすぐ後に、あのでっかいチャッキーが来て、本人が会いたがっていると聞いた時には緊張しましたね。
ちょうど風邪を引いていたせいもあって弱々しく見えました。
―― やっぱり小声でボソボソという感じですか?
そうですね、風邪を引いたことを除けば、'87年の時の方が元気だったですね。
―― スイート内での思い出は?
'87年の時、大阪城公園にマイケルのFanが集まって横断幕を掲げてたんです。
マイケルが僕に、双眼鏡を持って来てくれないかと言ったら ちょうどビルが持って来て、「ファンの女の子や男の子がいっぱいいるから、ちょっと覗いてみない?」と言って手渡しました。
衣装係のマイケル・ブッシュにBADのジャケットを持って来させ、それをわざわざ着て、窓際から手を振ったんです。
そしたらビルが「下へ降りて行こうか?」とマイケルを誘ったんだけど、マイケルは「ちょっと怖いから」という事で行かないと言ってました。
―― ビルはいつも止める側に回ることが多いと思ってたんですが、誘うこともあるんですねェ。
他に思い出すことは?(しつこく質問することすること!)
ええ、あの頃は非常によく食べてくれましたね。作ったものにも非常によく反応してくれました。
品数が多くてとても1人では食べられないんですが、それなのに
「これは僕の! 他の人には食べさせないよっ!」と言って、両腕でテーブルを抱え込んだりしましてねー(笑)
以前はそういう食事を出されてなかったんじゃないかと一番思いました。
―― 三條さんからご覧になったベジタリアンの食事はどう思われますか?
マイケルの場合で言うと、酸性の物を少なくして、身体を弱酸性・中性に保とうという気持ちがありますね。
―― 出された物は、ただ食べるんではなくて自分で考えて食べてましたか?
率直に感じたことは、マイケルの場合は料理という感覚ではないんですよ。好みだけから言うとアメリカのジャンクフード(part.1参照)が好きなんですよ。
それか、もしかしたらジャンクフードの様なものしか食べたことが無かったのかもしれないし(子供時代に)、料理に対してあまり興味が無いのかもしれません。母親が子供に食べさせる時のように、「これはおいしいですよ」と言うと食べるんです。
もう1つは信頼感ですね。あの人が作っているから食べられるという感覚的なものを要求するんじゃないかと思うんです。
アメリカ料理は、oneディッシュと言うか 1皿におかずやフライドポテト等を盛り合わせるものが多いんですが、日本料理は、小鉢に1品1品盛り分けて 匂いや味がミックスアップしないように気配りし、器などの色を目で楽しみながら食べるもので、アメリカにはこういう感覚はありませんが、マイケルは、「これが日本料理の良いところだね」と言ってましたし、またあれだけの人ですから、そういう感性で物を見るってところがあるんではないですか。
―― マイケルの食事を作る時に、特に気を配った点は?
とにかく、自分が食べて美味くないものは出せませんね。
それから、「この人のために作るんだ」っていう気迫が大事ですね。

三條さんの白衣&マイケルから贈られた帽子
―― 三條さんの将来の夢は?
この業界に入ったからには、自分でやはり独立したいという夢も持っています。
マイケルにも'87年・'88年と来日時に2回とも「LAへ来て欲しい」と誘われたんですが、マイケル側は僕個人に声をかけてるわけですが、僕としては会社に属している身なので簡単に返事は出来なかったんです。
「新しい家(サンタバーバラのNEVERLANDのこと)も買ったし、マレー系のコックも解雇したので来てくれないか」と言われたんですが、考えた末、「子供の教育問題で行けません」と最終的にはお断りしたんです。
―― その後マイケルからお誘いはありませんか?
まぁ、彼らにとってはその場その場のやり取りですから… ないんじゃないですか?
むしろ、僕が断わったのが不思議なくらいに思っていると思います。
マイケル本人と今回('88年)は何度も直接電話で話をしたんですが、ちょうど日本を離れる前日にもマイケルから電話がありまして、「日本の教育システムについて詳しく教えてくれないか?」と言って来たんです。
その後は帰国の準備などでバタバタしてしまって、その問題はそれきりになってしまいましたが…。
―― もし、また誘われたら行きますか?
コックの給料は○○円,荷物運びをいくら―― と、ある程度決まっているらしいのですが、例えば
「足りないから上げてもらいたい」とか、その他にも意見を言いたくてもなかなかマイケル本人に伝えられないらしいので、そのことでも「1度マイケルに話してみたらどうか」と言われたんですけど、そんなこともしたくありませんでしたしね。
アメリカで生活をするには かなり良い給料を提示されたんです。でも、家族で行くんだったらLAに住んで車で通う、という形でないと…。マイケルが街へ出る時もヘリコプターを使うというような 何もない不便な所に家族を置いてはおけませんしね。
独身だったら、面白味のある話ではありました。
そういえば、なんでも牧童とか庭師がいっぱいいて、マイケルの身の回りには2~3人のメイドしかいないってマイケルが言ってましたね。

ビル・ブレイは、右の耳が聞こえないんですよ。
あの人の英語は南部なまりで、まるっきり判らなかったんです。それでビルの息子のロードリック・ブレイ(髭を生やしているLAの現役の警官)が、僕の英語をビルに伝えてくれるんですが、左側に行って言わないと判らないんですよね。僕もビルのなまりが判らないんで、ロードリックが伝えてくれてたんです。(笑)
それでも今回('88年)は、かなり直接会話が出来るようになりまして、一緒にショッピングに行ったりしましたよ。
ロードリックも、とっても良い人ですよ。
―― ロードリック達はツアーに同行する時は、本職の方はどうしているんですか?
まとめて働いておいて休暇を溜めておいて、ツアーに付いて来ているみたいですネ。
彼は、ペプシのCMの火傷事件の時も身を投じてマイケルを助けてくれたりした人なので、マイケルも非常に信頼しているようです。
トリ肉を食べるようになったのも、ロードリックが言うには、LAで風邪のためコンサートをキャンセルした時に、ドクターの方から動物性タンパク質を摂るように勧められたからという事らしいです。
―― 魚も?
白身の魚ですね。肉も白身(ささみ)ですよ。
―― お刺身は?
刺身は食べないでしょうね。トライもしてみませんでしたが(笑)
箸は、「使ってみますか?」って言った時には、「箸は難しくて使えない。ダメだョォ;」って言ってました。(笑)
―― 海苔を気に入っちゃったとか…?
ああ、味付け海苔ね。
―― バリバリ食べるんですか?
もともと食が細いですからねぇ。「バリバリ」という風には…。
―― ポップコーンですが、買い溜めしてあるんですか。
「食べたい」と言われてから、缶詰の豆に植物性マーガリンとシーソルトを入れてポンポン作るわけです。
―― その豆は、無農薬とか有機栽培の物なんですか。
あれは日本ではあまり無いですねぇ。
あとは、パンケーキの上にかける黒蜜もアメリカから持って来てましたね。オヤツ的感覚の食べ物が好きみたいです。
―― マイケルの英語って、なまっていますか。
マイケルの英語は、すごくきれいです。
気持ちが表われているって言うか、非常に判りやすい 気持ちのいい英語をしゃべりますね。丁寧です。もともとシャイですからね。
―― ビル・ブレイ氏って何歳位なんですか?
もう60歳位です。[※ おそらく当時65歳位・2005年11月15日逝去]
第2次世界大戦の時、ビルは沖縄に上陸したらしいんですョ!
(台風じゃないんだってばァ! しばしその場は大笑いとなりましたァ~)
その頃ビルは20歳で…
「沖縄で“かぶら蒸し”を食べ、美味しかったからマイケルに作って食べさせてやってくれ!」って言われましたよ。
いろいろビルにものを頼んでも、すぐ忘れちゃうんです。もうお年ですからねぇ…。
―― もしビルが引退したら、誰が代わりをするんでしょうねぇ?
やはりビルの息子さんでしょうかねぇ?
ヒラリーが周りをチョロチョロしていますが、あの人じゃ しょうがないし…。
マイケルの部屋に時々入って(ヒラリーが)よくTVゲームなんかしてましたよ。
―― 身の回りの世話とかお洗濯は?
身の回りの世話は、殆んどマイケル・ブッシュという衣装係です。
彼の部屋にはマイケルの物が全部ありますよ。要するに、普段着から下着まで全部あります。


――

洗濯はしないですよねぇ…。
ホテルでは殆んどクリーニングですからねぇ…。
―― マイケル本人は、普段着とかあまり気にしないっていうかぁ…。
うん。もう…Tシャツとか、赤っぽいのが好きなんですよね。
キャピトルでは、コンサートの後は、パジャマに着替えて!
(マイケルが)丸井から帰ってきた時に、いっぱいある買い物の袋を 「何を買って来たの?」 って覗かせてもらったら、やっぱり赤いのがいっぱい入ってましたね。
―― かなりきついコロンを付けているって聞いたこともあるんですが…?
いやぁ~、付けてなかったですねぇ。体臭もほとんどありません。
ビタミン剤なんかは普通に食べてましたね。
―― お約束のお時間が近づいてきました。ありがとうございます。


長い間にわたり掲載して参りました この “三條さんインタビュー・シリーズ” も
今回をもち終了となりました。
快くインタビューに応じて下さった三條さんに感謝致します。
私達が直接触れることの出来ないマイケルの素顔を、三條さんのお話から知ることが出来ました!
『MOONWALK』メンバー一同よりお礼の言葉です。

「Thank you !  Mr. Popcorn SANJO

UPDATE - '07.08.30