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UPDATE - '09.01.10
【 ジャクソン5 と モータウン 】
'68年末~'76年3月までジャクソン5として在籍したモータウン。
ビジネス上の意思の食い違い等から袂を分かつ結果となりましたが、外野が見なすような「ケンカ別れ」などと単純には言えない絆は、当事者間の胸の内にのみあるのでしょう。
ベリー・ゴーディーJr. インタビュー 書籍 『モータウン・ミュージック』 より
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≡ Berry Gordy Jr. (ベリー・ゴーディーJr.) ≡
モータウン元社長
( VOL.32 / May 1991 )
『CUT』 誌 ('91年3月増刊 No.8) より抜粋。
BG … ベリー・ゴーディーJr. ―― … インタビュアー
――
マイケル・ジャクソンと初めて出逢った時のことを話して下さい。
BG
マイケルは生まれついてのスターだよ。
ジャクソンズがオーディションに来たのは彼が9歳の時だったけど、もうその時点で全てを兼ね備えていたよ。
歌にはすごく深味があって、どこかしら痛みをたたえていた。 こんな子供が一体どこからこんな痛みを?と思わせるような…
一見して特別な何かを持っているのが判ったよ。
フランキー・ライモンを連想させるところが多分にあって、だから曲を書く時もライモンを念頭に置いて書いたんだ。
――
マイケル・ジャクソンとは、その後もコンタクトを取り続けていますね。
BG
この間もマイケルがデトロイトに来て、モータウン博物館のためにベネフィットをやってくれたよ。
マイケルからの条件の1つに、私の自宅で2人だけでディナーを摂るというのがあったんだ。
楽しかった。 昔みたいに追いかけっこをしたりね。
マイケルは、ああいう純真さをいつまでも失くさない男なんだよ。
'88年10月23日、モータウン博物館へ12万5千ドルの小切手と衣装数点を寄付したマイケル。
ビル・ブレイ氏(右)は J5時代から'90年代までマイケルの警護を担当、3人とも旧知の関係。
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≡ モータウン・ミュージック ≡
( ネルソン・ジョージ著より一部抜粋 )
( VOL.31 / Apr 1991 )
原本は '85年刊。 翻訳本は '87年10月刊。
著者のネルソン・ジョージ氏は '82年 『BILLBOARD』 誌のR&B部門の責任編集者に就任、その後多岐にわたる分野にて多数の著書を持つ。
本著の執筆にあたっては、モータウン側から取材拒否を受け、過去モータウンを取材した記者たちがボツにされた取材メモやテープと、直接ネルソン氏が得た元モータウン関係者の証言等を元に構成。
モータウンでのJ5の成功物語は、誰もが知るところだろう。
5人の家族で構成されるグループが、インディアナ州ゲイリーの黒人市長リチャード・ハッチャーの後援会でダイアナ・ロスの目に留まる。
ダイアナ・ロスは、モータウン社長のベリー・ゴーディーを熱心に説得し、5人の少年たちは念入りな教育と音楽的な訓練を受けた後、最初に出したシングル4枚を次々とNo.1ヒットに送り込み、モータウンの生産ラインがまだ健在である事を示した。
というものである。
ヒットについては事実だった。 しかし、物語の他の部分については詳細な検証が必要だ。
早くからタレントぶりを発揮する息子たちを見て、パパ・ジョー・ジャクソンは妻キャサリンの理解とアドバイスを得て、彼らをショービズの世界に入れた。 モータウンと契約するよりずっと前から、彼らはブラック・ミュージックの中で着実に評判を積み重ねていたわけだ。
ゲイリーにあった小さなレーベル・スティールタウンからシングル2枚を発表、しかしそれがキッカケとなり、多くの有名アーティストが彼らに注目するようになる。
結局、彼らにオーディションを受けさせたのは、VIPレーベルのバンクーバーズのリーダー、ボビー・テイラーだった。
ジェイムス・ジェマーソンは、彼らの名前を聞いて笑ってしまった。 古いスラングの 『ジャクソン・ジャイヴ』 と、ルイ・ジョーダンのバックバンド 『ザ・ティンパニ・ファイブ』 を連想してしまったのだ。
しかし、モータウンのスタッフ達はオーディションを観終わって、彼らが真剣そのものであると感じ取った。 音楽的には未完成だった。 が、ジャクソン家の少年たちには否定しようのないバイタリティーがあった。
彼らのオーディションの様子を撮影した16mmフィルムは、その場に立ち会えなかった重役たちにも彼らの持つ熱気を生き生きと伝えた。
その後の重役会議で、グループを売り出すにはダイアナ・ロスに一役買ってもらうことが決定されたというのが、本当のところだ。
彼女が関係していることになれば、 『エド・サリバン・ショウ』 を始めとする全米ネットのバラエティー番組にもJ5を出演させることが容易になるはずだった。 TVなら、小さな彼らのカリスマ性もひときわ映えるだろう、という狙いがあったのだ。
'69年8月11日、ビバリーヒルズの 『デイジーズ・ディスコ』 にてメディアに向けたJ5プレミア
J5は今まさにモータウンに取り込まれようとしていたが、シュープリームス,スティービー・ワンダー,マーヴィン・ゲイ,その他のモータウン・アーティスト達とは事情を異にしていた。
J5は既に充分練り上げられた視覚的なスタイルも持っていたし、マネージメントをする人間(両親)もちゃんといた。
J5の契約は標準的なモータウンの契約とはそれほど掛け離れたものではなかった。 印税は2.7%で、従来のモータウンに比べれば良くなってはいたが、8%という当時の趨勢から見ると、とても気前が良いとは言えなかった。
少年たちとパパ・ジョーは、LAに連れて行かれて訓練を受けた後、レコーディングに取り掛かることになった。
だが、デトロイトにあったようなアーティスト養成部などはもう思い出でしかなかった。【※1】 会社が西(LA)へ移転した際、かつては多忙さを極めたアーティスト養成部の建物は放棄されてしまった。
モータウンがデトロイトで使っていた専門家たちやシステムに代わって、ゴーディー,姉のグエン・アンナ,ダイアナ・ロス,それに新入りのスザンヌ・デ・パッセと彼女のいとこのトニー・ジョーンズがLAに集まり、1回きりのプロジェクトとして J5の養成計画に着手した。
マイケル・ジャクソンの教育については、ダイアナ・ロスの功績ばかり強調されているが、全てがデッチ上げとは言わないまでも、アドバイザーの中心人物は実際はデ・パッセだった。
デ・パッセは、飲み込みが早く忠誠心のある才能豊かな女性だった。
【※2】
しかしながら今回のプロジェクトは、ショービズのベテラン達が右も左も判らない若僧へのコーチに当たった昔とは話が違った。 デ・パッセなどよりもJ5の方がショービズの世界には慣れていたのだ。
その上、J5は自分たちで勝手にリハーサルをしていたので、彼女はインストラクターというよりもガイドのような役割を果たすことになった。
彼女は彼らにジェームス・ブラウン的な部分を切り捨てるように言い、流行の蛍光色を使ったステージ衣装をあてがい、少年たちの為にステージ用の可愛らしいギャグを考えてやったりした。
さらに、J5がある程度人気が出てきた時点で、彼女はモータウンの副社長となって、さまざまな業務の責任者となった為、アーティストを育てるという仕事には不可欠の "つきっきりの教育" というものが出来なくなってしまった。
J5をうまく波に乗せるためには最高の曲が必要だという事は、ゴーディーにも判っていた。 しかし、彼にはもうこれといった手が無かった。
H-D-Hはもういなかった。【※3】 ノーマン・ホイットフィールドは多忙だった。 スモーキー・ロビンソンは '72年から3年間の休養を取るために活動のペースを落としていた。 アシュフォードとシンプソンはJ5には不向きだった。 ボビー・テイラーがJ5のプロデュースをやりたくてたまらない様子であったが、彼1人に任せるにはこの仕事は重要すぎるとゴーディーは考えていた。
そこでゴーディーは、ダイアナ・ロスがいたシュープリームスの終盤期のシングル数枚の時と同じように、自分自身が作曲活動に積極的に関わることにしたのだった。
ジョー・ベートのスタッフ3人がグラディス・ナイト&ザ・ピップスのために書いた曲を取り上げ、歌詞を変え、キーを下げ、そしてリズムトラックを録音し直させた。 その結果、出来上がったレコードは非の打ちどころのないダイナミックなプロデュースと、明らかにゴーディーの専門的意見が取り入れられたと思われる そつのない歌詞に支えられた、若々しい熱気の溢れる作品に仕上がっていた。
ますます時代遅れになりつつある3分間シングルの作り手としての手腕を、ゴーディーはいま一度 人々に見せつけることになったのである。
'69年10月18日、米ABC 『ハリウッド・パレス』 にてデビュー曲 "I Want You Back" のTVプレミア
ゴーディーは、その "I Want You back" の作曲チーム (リチャーズ,ミゼル,ペレン,ゴーディー) に、 『ザ・コーポレーション』 という名前をつけた。 彼以外のメンバーが人目につくのをゴーディーが防ごうとしたのは明らかだった。
さらに、彼自身が積極的に介入したことが曲の成功を導いたわけだが、これは一時的な方便であって、人手不足を補うための止むを得ない措置であった。
デトロイト時代とは違い、LAでは常にタレント狩りの危険が伴っている。 ゴーディーが彼らの名前を隠した理由もそこにあるが、 『ザ・コーポレーション』 の3人のうち最も才能の光っていたペレンは引き抜かれてしまった。
ザ・コーポレーションとJ5のレアショット
このような事情で、'70年代になってモータウンに参加した若いアーティスト達には結局、レコードに関してもそれ以外の面でも、J5のような基礎固めはされなかった。
もうひとつ、J5とモータウンの特殊な関係性について、J5がゴーディーをどう捉えていたかという事がある。 これが最終的にはモータウンにとって深刻な結果を招くことになる。
デトロイトのモータウンにいるアーティストや社員たちの多くにとっては、ゴーディーは黒人が権力ある地位に就くなど稀な世界で成功を収めた、いわば黒人の力の象徴だった。
しかしジャクソン一族には既に、息子たちに尊敬を要求し、口ごたえを許さず、あらゆる所で自分の考えを押し通すわがままなリーダー、パパ・ジョー・ジャクソンが存在していた。
ジョー(ジョゼフ)・ジャクソンとその息子たち
新しいアーティストの殆んどがこのように自主性を持とうとしたが、これは "ベリー・ゴーディーに任せろ!! " というモータウンの常識とは明らかに相容れないものだった。
やがてジョーとゴーディーの間には、牽制し合い お互いをライバル視するような関係が生まれた。
ジョーは息子たちの成功に大喜びはしたが、当時のJ5の関係者の話では、彼はモータウンが自分や妻の果たした役割を過小評価し、ダイアナ・ロスやゴーディーの功績ばかりを強調することを快く思っていなかったという。
その結果ジョーは、J5をバンに乗せ全米を走り回っていた頃と同じくらい熱心に、自分の息子たちが一般市場でどれくらい価値があるかを査定し始めた。
もちろん、モータウンにとってもJ5は投資し大々的な宣伝をする価値のあるアーティストだった。
シュープリームス以後、これほど売りやすい商品はモータウンには存在しなかった。 健康的で可愛らしく、黒人の持つ過激な一面を保守的なアメリカ中流階級向けに中和したJ5は、全米ネットのTVにもってこいのアーティストだった。
'70年に米ABCから放送されたダイアナ・ロスの特別番組で、彼女を食って主人公の座をさらってしまったのがJ5,中でもフランク・シナトラに扮して "ABC"
【※4】 を歌ったマイケルだった。
ダイアナ・ロスと一緒にTV初出演を果たしたその番組
【※5】 の後、自分たちの特別番組 『ゴーイング・バック・トゥ・インディアナ』 や漫画シリーズを通して、TV界におけるモータウン最大の成功をもたらしたのは、他でもない J5だったのだ。
J5と契約したPost社は、自社製スナック菓子に続々と 『J5のオマケ付』 抱き合わせ企画を打ち出す。
左から "ALPHA BITS","HONEY-COMB"(表/裏),"SUPER SUGAR CRISP"(表/裏)
※編集より付記
本書で記述の番組は '71年4月18日 『ダイアナ!』 の事。