彼とコンタクトを取るのは容易ではなかった。 マイケル・ジャクソンが空前の金額の契約を結んだことが公表された後は、さまざまな “大物連中” が彼に挨拶するようになったというのだから。
エピック・レコード,ソニー・ミュージック,コロンビア映画,それにこの歴史的な事業にわずかでも関連する会社が自分たちの名声を主張し、マスメディアで発表することによって関連を持とうとしたのだ。
通常、舞台裏の人間というのはさまざまな事を決定し、策謀し、采配を振るうものだと思っていた。
私はまず最前線の人々をくぐり抜け、“事情通” と言われる全ての人に連絡を取った。 ソニーからコロンビアへ,エピックからCBSへ,広告代理店からマーケティング・グループへと。
私は “彼” を追った。 マイケルのメイン・マンで MJJプロダクションを任されている “彼” の名は、ボブ・ジョーンズ。
ついに電話から彼の声が流れてきた。 滑らかで、しっかりとしていて、雄弁な声が。 彼はすぐに打ち解けてくれた。
その時、私は突然、誰か ― 頼もしい人柄の責任者 ― が指揮をとるスペースに入り込んだような気になり、さっそく用件に移った。
彼には全く気取ったところが無かった。
「Mr. ジョーンズ、ありとあらゆる所を捜しましたよ」。
|
BJ
|
判ってますよ。 私を捉まえるのは簡単ではないんです。 大変だったでしょう。
|
と、こんな風に会話は始まり、この素晴らしい男性のステキな企みの話へと入っていった。
ボブ・ジョーンズは MJJプロダクションの副社長であり、メディア関係の担当者であり、マイケル・ジャクソンに直接連絡する連絡係である。
マイケルがモータウンを離れた後も ― 彼は契約の更新をしなかったのだ ― ジョーンズとは親しく付き合っていた。
'87年にMJJプロダクションを設立した時、マイケルはジョーンズをそのヘッドにし、自分に関する事とその活動についてのメディア・情報・広報関係の責任者にした。
|
BJ
|
マイケルと一緒に仕事が出来ることを名誉に思いました。
モータウンを辞める決心をするのは、容易なことではありませんでした。 ベリー・ゴーディ(モータウン社長)には山ほど恩がありましたから。 ゴーディは私にチャンスを与え、成すべき事を与えてくれたのですから。
私を知る誰もが、私がモータウンをどう思っているか知っています。 仕事以上のものでした。 人生そのものだったんです。
|
モータウン在籍時のジョーンズは、報道・広報・アーティストの権利関係のディレクターの重役だった。
17年間の関わりを持つモータウンを離れ難く思っていたようだ。
ジョーンズとモータウンの関係は、'70年にインターナショナル・タレントマネージメント部門で始まった。 マイケル・ジャクソン,J5,ジャーメイン・ジャクソン,リック・ジェームス,ブルース・ウィリス,スモーキー・ロビンソン,ライオネル・リッチー,フォー・トップス,グラディス・ナイト&ピップス,そしてマーサ・リーブス&バンダラス等、トップ・アーティストの宣伝の責任者だった。
『モータウン25』,『ビリー・ホリデイ物語』,『マホガニー』 等に、ジョーンズの名前が見られる。
ジョーンズは “モータウンのイメージの保持者 兼 保護者” だったのだ。 その仕事を、彼は完璧に務めてきたのだった。
オーシー・ジョーンズの息子として生まれてから、亡くなったエンターテイナーのボビー・ダーリンや 公民権運動家のマギー・ハザウェイ等と親交を結んでから、ジョーンズは間違いを犯したことがない。
ジョーンズは '51年にテキサスのフォートワースから LAにやって来た。 ロスアンゼルス高校から南カリフォルニア大学へと進んだ。
彼の興味は早くからエンターテイメント業界にあった。 彼のプロモートした伝説的なエンターテイナー達には ルイス・ジョンソン,ダイナ・ワシントン,ラス・ブラウン,カウント・ベイシー,ジミー・ランスフォード,ジョニー・オーティス等がいた。
'68年に親友のボビー・ダーリンが、ジョーンズをロジャーズ&コーワンPR団体に推薦した。 ビバリーヒルズ・ハリウッドの NAACP(黒人地位向上委員会)の創設者で会長のマギー・ハザウェイは、顧客主任として彼と2週間一緒に働いた。 ジョーンズはそこで2年を過ごした。
コーワン社での彼の仕事には、'69年のココナッツ・グローブでのダイアナ・ロス&シュープリームスのオープニングナイトのコーディネート等もあった。
他にも在職中にはジェームス・ブラウン,J5,シュープリームス,ルー・ロウズ,メアリー・フェルドマン等の大物スター達と仕事をした。
MJJプロダクションでのジョーンズの仕事ぶりについては、しっかりとしていてパワフルだろうと言われていた通りだった。
次の10年間、マイケルは前人未到のメガスターとなるだろう。 ボブ・ジョーンズがそうするだろうから。
|
BJ
|
マイケル・ジャクソンは、プロフェッショナルの申し子なんです。
彼のハードな仕事っぷりが、今日の彼の地位を築いたのです。
|
J.モリッシュ , J.ロイシュナー , P.ラッセル , B.ブレイ , マイケル , J.モーレィ , B.ジョーンズ , L.ソルタース
そう語るジョーンズもまた、ハードな仕事ぶりで今日の彼の地位を築いたのだ。 それだけの事はしてきたのだから。
|
BJ
|
この世に貢献しようとはしない人や 現状に圧倒されてしまう人は、何も成し遂げることが出来ないと思っています。
そう思うのは多分、私が偏屈で少々変わり者だからなんでしょう。
|
'89年にジョーンズは、 『真相についての考察』 という記事を書いている。
その中で彼は、トニー・ブラウン,ルイス・ファラハン司祭,マルコムXについて触れている。
|
BJ
|
…そういった人たちと私は、新聞のコラムニストとして共に歩む機会に恵まれたのです。
彼らは私に、一生の課題として考えるべきメッセージを与えてくれました。
|
ジョーンズにはメッセージについての考察があるだけではなく、ヘラルド社に在籍中に マルコムXと常に一緒に仕事をしたという思い出もあった。
彼は、自分が生きているうちに伝説の人物になるかもしれない事について考えてみた。
|
BJ
|
偶然の結果などではないことを願いますよ。 ずっと努力してきた結果であることを願います。
確かに私はこの業界で大成功を収めました。 けれど、自分がどこから来たかという事を忘れるような真似は決してしません。
|
|
ジョーンズは 2年間、公の場に多くの黒人を送り出すことが目的の黒人PR団体(BPRS)の南カリフォルニア支部の支部長を務めた。 在籍中、彼は奨学金制度の設立に成功し、先ごろNYで黒人コミュニティ団体から “先駆者賞” を受賞した。
NAACPからは 2つの賞を受けた。 ビバリーヒルズ・ハリウッド支部のディレクター委員会のメンバーであり、2つの金銭上の成功を認める賞を受けた。
また彼は、 『著名人名鑑』,『公的人物名鑑』,『アメリカ黒人名鑑』 にも記載されている。
|
BJ
|
人は、私のことを頑固者と呼びます。 私は頑固者ですよ。 自分に、優秀である事とベストを尽くす事を強いていますから。
他のやり方を知らないんです。 この業界でベストを尽くしてきましたし、これからもいろんな状況でベストを尽くすつもりです。
|
ジョーンズは、メディアの戦略家・活動家として “この業界のトップクラスの人物” との評判を獲得した。
マイケル・ジャクソンもそう考えたに違いない。
ジョーンズのマイケル評は、こうである。
|
BJ
|
類まれなアーティストです。
自分自身の全てのプロジェクトの立件から指揮までをこなし、それらビジネスのあらゆる面において精通しているのです。
私の役目は、彼の創造力から流れ出たアイデアを実行することです。
マイケルは優れたエンターテイナーであり、私は彼が歴史の一部を創り上げる助言をするという名誉を受けているのです。
|
― 編集より追記 ―
ボブ・ジョーンズ氏は解雇後に執筆の著作本(共著の原稿)でのマイケルのスキャンダルに関する記述は事実無根だったと自ら法廷で認め、ファン間でも培われていた永年の信頼は一気に崩れ去りました。
'08年9月20日に心臓発作にて死去、初の黒人アメリカ大統領の誕生を7週間の差で彼は目にすることが出来ませんでした。
ご冥福をお祈り致します。
・・・ END ・・・
|