【 関係者の初来日感想集 】
( VOL.72 / Feb 1995 )
 1987年9月、マイケルがJ5でもなく ジャクソンズでもなく、ソロで初めてのワールド・ツアーを開始するために来日してから足かけ8年が経とうとしています。 当時のマイケルはまだ29歳という若さ!
 それからマイケルは数回来日してくれ、"ツアーがあれば日本に来て当たり前" という意識が、ファンにも関係者にもあったりして…。
 改めて考えてみると、マイケルが日本に来てくれたって事は そりゃーすごい出来事だったんですけどねぇ。'87年初来日のニュースを聞いた時は 「マイケルがぁ…?! そりゃ無いでしょ…」 なんて思ったくらい、ちょっと信じがたい情報だったですもの!!
 だんだん本当だと判ってきて、「ウソ!ウソ!夢みた~い」 のワクワクの日々でした。
 でも…しかし…悲しいかな "ビデオ内蔵人間" じゃない限り記憶は薄れていくわけです。

 そこで今回は、'87年ソロ初来日に携わった関係者の方たちの 『マイケルとともに仕事をし、接した感想』 を取り上げてみて、ファンとはまた違った角度から捉えた "マイケル感" に接してみようとを思います。
 大騒動だった頃のことを思い出して、またいつか来日してくれるだろう事を夢見て、気持ちをピュアにしておきましょう!!



'87年4月24日 ロサンゼルスで 『ジャパン・ツアー』 について契約調印をするマイケル

  '87年ジャパン・ツアーは 「日本テレビ開局35周年記念イベント」 として行われました。
 それまでのこういった企画は、専門のプロモーターがお膳立てをし、仕切る場合が多かったわけですから、テレビ局が企画・主催したということはとても画期的なことだったと言えます。
 このイベントの中心になったのは、日本テレビ事業部の12人で構成された 『マイケル・ジャクソン事業部』 でした。


■放 送■
塩谷憲昭さん

 (半年以上に及んだ大イベントを終えての感想は) ツカれたびー、終わった終わった。

 (マイケルと直接会ったときの印象は) "気の弱い青年"、スターにはこのタイプが多いもんね。
 ファンが何を考え、何を期待しているのかをいつも神経質なほど気にしていた。


87年9月9日(水)午後4:15 成田到着(ロス発JAL61便)
成田空港に着いた時マイケルはマネージャーに 「カメラマンは たくさん来てるの?」 と訊いたそう


■チーフ・プロデューサー■
白井荘也さん

 今世紀最大にして最後のイベントにふさわしく、このプロジェクトも最大のものでした。
 民放としての初の直接交渉・直接契約にいたるまでの月日(約半年)、そして'87年4月の契約から彼の離日までは精神的な気苦労が多く、それはそれは起伏に富んだ日々でした。終わってみればなんとなくセンチメンタルな感情が残り、"終わっちゃった" というのが実感で、ちょっと寂しい思いがします。
 アメリカと日本とのショウビジネスの考え方・やり方習慣の違い等が、色々な面で勉強になりました。

 (マイケルと直接会ってみての印象は)予想外・概念外の人。
 われわれの微笑が本物であり心から歓迎している事を、彼は信じたようです。それによって心を開いてくれたと信じます。日本人の持つ優しさ・賢明さは、むしろ彼のクルーを洗脳したのではないでしょうか。
 とにかく純粋さを心から信じる彼に、こちらもより純粋になる事によって近づけたという実感です。
 あのサングラスは人を見極めるためのガード。あのサングラスの中から "いい人、悪い人" を彼なりに見て、安心できるとサングラスをはずしました。あれはサングラスではなく、アイグラスだったのです。


ホテル側担当者など沢山の日本人スタッフに心を開いたマイケル


■警察・公官庁折衝■
村井 允さん

 '87年9月9日のマイケル成田到着が、マドンナの大阪到着の混乱と同じようになったら… と心配しましたが、報道の行広君と1週間も成田に通った成果が実り、各署の協力を得て無事送り出す事が出来ました。
 その後も各地の警察が大変協力的で、私も行広君もそれまで持っていた "警察" のイメージを変えさせられたほどです。
 お客さんの質が良かったのが最大の要因でした。騒音に対する苦情が皆無に近かったのには驚きましたが、事前報道で付近の住民も認知していた結果だったろうと思います。


87年9月24日 大阪・富坂警察署訪問後


■プレス担当・運営本部■
岡部荘太さん

 ともすれば部分部分セクショナリズムに偏ってしまいがちなこの種のイベントを、絶えず全体を見失うことなく1ケ月間やり終えたのは、誠に見事でした。
 NTV事業部は、これまで得たノウハウを生かして一層の大物スターのコンサートをやるべきだと思います。

 (マイケルに直接会ったときの印象は)人前で歌うとき "ギンギンの緊張感" がある。
 お顔をお近くで拝見できた時の温厚な感じに何となく安心。 "こいつはいつも世間からのプレッシャーに押し続けられて、人間が死んでしまったのではないか" なんて気にしていたけど、決してそれは正しくないのだと思いました。


87年9月15日 池袋西武前にて


■広 報■
河野良子さん

 マイケルの権利を守ろうとするマイケル側の広報担当と、取材していただく日本のマスコミの方々の間に立っての調整が大変でした。
 すなわち、私自身が広報担当という立場でありながら、招聘者の一員であるということで、相手方の気持ちのバランスを自分の中で整える事も同時につらいものでした。取材の方達にあらかじめ書類を提出していただくなどもあり…

 疲れたけど楽しかった1ケ月でした。正直言って、あのすばらしい公演をもう一度観たいです。



■公演運営■
中西邦夫さん

 面白さと不安の連続でした。
 自分にとっての大きな財産になる経験、勉強をさせてもらい、大きな自信と今後に対するヤル気を感じるようになったのは嬉しいこと。

 (マイケルと直接会った印象は)とても純粋で童心を持ち続けている人という気がするだけに、逆に人の心を見透かすことができる数少ない人のようで、ちょっぴり怖い気がしました。
 芸能界の中で彼の "純粋さ・素朴さ" を、どうやってスポイルせずに泳ぎ切るか。今回のプロジェクトに参加して、改めてこういったことの大切さを感じました。


87年9月 左: 東京ディズニーランド  右: キディランド


■マイケルの通訳■
パトリックさん

 カリスマを持った人。何度か会ううちに吸い込まれていくというか、いい意味で聞いていたマイケルとはまったく違う。シビアに物を考えるし、自分を知っている、偉大だなと思う。
 カラに閉じこもっていると書かれているけど、それは他人に対する心遣いからくる誤解。
 日本語のあいさつは来日前にアメリカで覚えてきたみたいだけど、夜の公演で 「コンチハー」 と言っちゃったりしたんで改めて教えたり、ステージの下でローマ字のQシートを出したり…。

 人間的には100点満点の人ですね。
 来年のアメリカ・ツアー('89年BADツアー)に招待してくれるそうなので楽しみです。


 パトリックさん(画面中央・よみうりランドにて)


レプリカではなく、実際にステージで使い続けていた物を託されたパトリックさん。
マイケルから寄せられた信頼はそれほど厚いものだった


■マイケル側との連絡・交渉・ノベルティー管理■
清水加代子さん

 厚い契約書を見せられ "これを全て頭の中に叩き込んでくれ" というのが最初の仕事でした。
 現在私のファイルにある膨大なFAXも、今では懐かしい日記帳のような感じがします。
 公演中は正直言って早く日本を離れてほしいと思いましたが、いなくなってしまってから心の中に穴が開いたような気持ちになりました。独占番組(日本テレビ)を見たときは、ぐっとこみ上げてくるものがありました。

 (直接会ったときの印象は)顔立ちからは、人間離れした無感情・無表情な冷たさを感じましたが、子供が本当に好きで、本人も子供のような純粋な心を持った人なんだろうな、と。


※ 販売・取り扱いは既に終了


■1987年 来日データ■

 ● 観客動員数 (14回公演) 429,000人
 ● ツアー・スタッフ (内: 日本人30人) 150人
 ● 機 材 150 t
 ● 会場警備延べ人数 7,160人
 ● マスコミ取材
    o 後楽園球場(現在の東京ドーム)
    o 西宮球場
    o 横浜スタジアム
    o 大阪球場

150社  350人
29社  150人
60社  200人
30社  200人
 ● コンサートチケット売上 26億円
 ● コンサート・グッズ売上
    o プログラム
    o テレフォンカード
    o Tシャツ
7億円
59,000部
30,000枚
17,500枚
 ● マイケル来日関連売上総額 (推定) 55億円

UPDATE - '08.07.08